ど、奥の方はそれだけでは納まりません。
「近いうちにお慶《めで》たいことがおありなさるんですとさ」
早くも女中たちの口から、こんな噂《うわさ》が立ってしまいました。
その女中たちの中にはお松がいました。お松は今、箪笥から掛物の一幅を取り出して塵《ちり》を掃《はら》っていました。
「お慶たいこととはどなた」
「お松様はまだ御存じないの」
と言って、ほかの女中たちは面を見合せました。
「いいえ、存じません」
「そのお慶たいことで、あんなに御普請が始まったり、こちらではまた御宝物のお風入れがあったりするのではありませんか」
女中たちはお松の迂闊《うかつ》を笑うような言いぶりです。
「それでも、わたくしは存じませんもの」
「それはね」
「はい」
「つい、この近いところよ」
「近いところとは……」
「近いと言ってもこの甲府に近いところ、それはこれから三里ばかり離れた有野村というところの大金持のお家から、近いうちに殿様へお輿入《こしい》れがあるんですとさ」
「それは結構でございますねえ」
お松は手に持っていた掛物の塵を掃ってその紐を解きました。なにげなくあけて見ると、それは山水でも花鳥でも
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