ようなお沙汰のあったことをお聞き申しませぬ故に……」
「ナニ、それを聞かぬ? では、わしがお前の身の上について、伊太夫へ頼んでやったことが、お前の方へは取次がれんのじゃな」
「はい、どのような御沙汰でございましたか……」
「それは不審」
 能登守は美しい面《おもて》を少しく曇らせました。お君はハラハラとした気持が休まりませんでした。やがて能登守はこう言いました。
「ほかではない、わしのところはこの通り女手のない家、それ故に伊太夫の方でさしつかえのない限り、お前にわしの家へ来て働いてもらいたいがどうじゃと、家来をして申し入れたはず、それを伊太夫が断わって来た」
「まあ、そんな有難い御沙汰を……どうして旦那様が」
 お君は当惑に堪えないのであります。御支配様からの御沙汰をお請《う》けをするとしないとに拘《かかわ》らず、左様な御沙汰があったならば、一応は自分のところへお話がなければならないはずだと思いました。いくら主人だといっても、自分の身の上の御沙汰を、途中で支えてしまうというのは道理のないことだと思いました。さりとて、あの大家の旦那様が左様なことをなさるはずもなし……その時、はたと思い当
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