君はようやく、その椅子へ腰を卸して、能登守と卓子を隔てて座にはつきましたけれど、恥かしいやら恐れ多いやらの感じで、胸がいっぱいです。
「先日は結構な下され物を、まことに有難う存じました」
やっとの思いで、お君はこれだけのお礼を、能登守の前へ申し述べたのであります。
「ナゼお前は、わたしのところへ来てくれない」
と能登守は砕けてこう言いました。その言葉の温かみは感じたけれども、その意味がお君には、よく呑込めませんでした。
「お礼に上ろうと存じましても、あまり恐れ多いものですから……」
お君は、おどおどとして申しわけをしました。
「お前がわしのところへ来てくれると、わしは嬉しいけれども、伊太夫の家で、お前を放すことはできぬというからぜひもない」
と能登守は、お君の横顔を見ながらこう言いました。この一語は、少なからずお君の胸を騒がせました。今までは身分の違う人の前と、見慣れぬ結構の居間へ通されたことから、気がわくわくしていたのですけれども、能登守の今の一言《ひとこと》は、それとは全く異《ちが》った心でお君の胸を騒がせました。
「わたくしは左様なことを、いっこう承りませぬ、主人からも、その
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