物は、やはり見慣れない文字の書物であります。それを見慣れた文字に書き直していたようであります。今まで広場で調練の指図をしていたという能登守は、それがために血色が活々《いきいき》として、汗ばんだところへ黒い髪の毛が乱れかかっていました。
「よくおいでなされた、暫らくそれでお待ち下さい」
と言って、筆を持ちながら、お君の方へ向いて莞爾《かんじ》とした面《おもて》には、懐しいものがあります。
「はい」
お君は、やっぱり立ち場に困って、椅子へ腰をかけるのは失礼であろうし、そうかと言って、絨氈の上へ坐って笑われはすまいかとの懸念《けねん》で、真赤になって立ち竦んでいるのみであります。
駒井能登守は和蘭《オランダ》から渡った砲術の書物を、いま自分の手で翻訳しているところであります。ちょうどそれを程よいところでクギリをつけてから筆をさしおいて、その椅子から立ち上って、
「お君どの、よく見えましたな、一人で……」
と言って能登守は、真中にある方の大きな卓子《テーブル》の方へ進んで、
「さあ、それへお掛けなさるがよい」
「はい」
能登守は、お君に椅子をすすめながら、自分も椅子に凭《よ》りました。お
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