それからこの屋敷の前にあった縄のれんの一ぜん飯屋の前を二三度|往来《ゆきき》しましたが、思いきってその中へ入って空樽へ腰をかけてしまいました。米友はここで一ぜん飯を食いはじめました。一ぜん飯を食いながらも、役割の屋敷からちっとも眼をはなすことではありません。けれどもいったん入ったお君の姿は、この家のどちらからも外へ出た模様はありません。一ぜん飯を食い終った米友は、なお暫らく腰をかけて、縄のれん越しに市五郎の宅ばかりを見ていました。そのうちに日が暮れかかって、四方《あたり》が薄暗くなりました。飯屋の親方は掛行燈に火を入れました。
米友はようやく気がついたように、四方を見廻して、
「ああ、俺らも燈籠へ火を入れるんだった」
と急に考えて飛び上りました。
けれども、燈籠に火を入れることはもはや米友の責任ではありません。ただ偶然、その責任に驚かされてこの一ぜん飯屋を飛び出した米友は、役割の家の塀の辺《あたり》をグルグルと廻っていました。
ちょうど、黄昏時《たそがれどき》であることが、米友にとっては仕合せでありました。塀のまわりや壁の下に身を摺《す》りつけて、中の様子を伺っていると、数多《あ
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