と共に構えていた鉄砲を取卸《とりおろ》して、
「君はここにいたのか、この甲府の牢内にいたのか、それとは少しも知らなかった、今宵《こよい》牢を破った浪士の頭は南条、五十嵐という両人の者とは聞いていたが、その一人が君であろうとは思わなかった。君もまた、駒井甚三郎が能登守といってこの甲府の城にいるということは気がつかなかったろう。しかも知らずしてその屋敷まで逃げて来たことが、いよいよ奇遇じゃ。ともかくもこっちへ来給え」
 この打って変った砕け様は、南条を驚かしたより多く五十嵐を驚かしてしまいました。呆気《あっけ》に取られていた五十嵐を無雑作《むぞうさ》に拉《らっ》して、能登守が招くがままに、南条は旧友に会うような態度でその方へと進んで行きました。外はやっぱり靄で巻かれているのに、ここでも煙に巻かれるような出来事が起りました。

 南条、五十嵐の二人は、宇津木兵馬をも携《たずさ》えて、能登守に導かれてこの廊下を渡って行ってしまった時分に、廊下の縁から黒い者が一つ、ひょっこりと現われました。
 縁の下の役廻りは斧九太夫以来、たいてい相場がきまっているのであります。これは手拭で頬被《ほおかぶ》りを
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