窺《うかが》っているのであります。そうすると南条は立ち上りました。立ち上って書棚の方へ行って、並べてある書物を一通り見て廻りましたが、最後にその中の一冊を抜き取って前の裸蝋燭のところまで持って来て、
「蘭書《らんしょ》だ」
と言いました。
「何が書いてあるのだ」
と五十嵐が尋ねました。
「スメルトクルース、つまり鎔坩《るつぼ》のことだ、鉱物を鎔《と》かす鎔坩のことを書いてある和蘭《オランダ》の原書だ」
と南条が説明しました。
「それはますます珍《ちん》だ、ここの主人は洋行した鍛冶屋《かじや》でもあるのか」
「こりゃあ高島先生のお弟子か或いは江川坦庵《えがわたんあん》の門下であろう。それにしても今時こんな書物を、甲州の山の中で読んでいるというのが変っている」
 南条は首を捻《ひね》りながらその蘭書を開いてパラパラと二三葉飛ばして見ていました。これによって見れば、ともかくもこの南条は蘭書が読める人らしいのであります。五十嵐の方は覚束《おぼつか》ないと見えて、本をひっくり返している南条の手元ばかりをながめていましたが、
「とにかく、火を熾《おこ》そうではないか、そこに火鉢がある」
 能登守が
前へ 次へ
全190ページ中176ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング