あれば地球儀もある、本箱に詰っているのはありゃみんな洋書で、あの机の上のは舶来の理学の器械や外科の道具と見ゆるわい、それにまたこの一室の全体が日本の造りではないわい、この板の間に敷きつめてあるのも、こりゃ和蘭《オランダ》あたりの代物《しろもの》らしい。いったいこの部屋の持主はこりゃ何者だろう。こうして見ると我々は南蛮の国へでも流れついたようで、トンと甲州にいる気はしない。もし日本の者ならば、長崎の高島秋帆《たかしましゅうはん》先生か、信州の佐久間象山《さくましょうざん》先生あたりの部屋を見るようだわい」
 こう言ってしきりに室内を見廻して興がっていたのは、それは獄中で紙撚《こより》をこしらえていた奇異なる武士、すなわち仮りの名を南条と呼ばれていた破牢者でありました。彼は多年獄中にあっての蓬々《ぼうぼう》たる頭髪と茫々《ぼうぼう》たる鬚髯《しゅぜん》の間から、大きくはないが爛々《らんらん》と光る眼に物珍らしい色を湛《たた》えて、しきりにこの室内を見廻しているのであります。
「なるほど、これは妙なところへ落着いた。昔大江山の奥に酒呑童子《しゅてんどうじ》が住んでいた、それを頼光《らいこう》
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