てその打掛の裾を引いてみたり、立ってみたり居てみたりして堪《たま》らない心です。
お君がこうして夢中の体《てい》でいる時分に、その窓の外で風の吹くような音がしました。夢中になっていたお君には、その音などは耳に入ることがありません。つづいて刷毛《はけ》を使ってみたり髱《たぼ》をいじってみたり、どこまで行ってこの奥方ごっこに飽きるのだか、ほとほと留度《とめど》がわからないのであります。
しかしながら、その風の吹くような音が止んで直ぐに、それほど夢中であったお君が、その夢を破られないわけにはゆかなくなったのは、それが風の音だけでなかったからであります。
「ワン!」
というのは犬の声、愛すべきムク犬の声でありましたから、この声だけには、お君もその逆上《のぼ》せて逆上せて留度《とめど》を知らない空想から、今の現在の世界へ呼び戻されないわけにはゆきません。
「ムクかい」
お君はあわてて立ちました。
「お前、今までどこへ行っていたの、こんな晩にこそお邸にいて御門を守らなければならないのに、今夜に限って外へ出歩いて、いくら呼んでも出て来ないのだもの、いくら心配したか知れやしない」
庭の方へ向っ
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