身に集めてしまいました、わたしのお殿様は世間のお殿様のような浮気ごころで、わたしを御寵愛あそばすのではありません、奥方様よりもわたしを可愛がって下さるのです。わたし、もうお殿様が恋しくて恋しくて仕方がない、わたしの胸がこんなにわくわくしてじっとしてはいられない」
 お君は鏡台の前に立って悶《もだ》えるように、手を高く後ろへ廻して髪の飾りを取って捨てると、髪を振りこわしてしまいました。たった今、片はずしに結《ゆ》ってみたくてたまらなくなったからです。
 お君はついに髪を解いて、そこで自分から片はずしの髷《まげ》を結ってみようとしました。櫛箱《くしばこ》を出して鏡台に向ったお君の面《かお》には、銀色をした細かい膏《あぶら》が滲《にじ》んでいました。お君の眼には、物を貪《むさぼ》る時のような張りきった光が満ちていました。
 無教育な故にこの女は単純でありました。賤しい生れを自覚していたから、物事に思いやりがありました。今となってはその本質が、ひたひたと寄せて来るほかの慾望に圧倒されてしまいました。可憐《かれん》な処女の面影が拭い消されて、人を魅《み》するような笑顔《えがお》がこれに代りました
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