ばせたのでありました。
 そうして日を経て行くうちに、お君がいよいよ殿様のお気に叶《かな》ってゆくことを、家来の人たちは妬《ねた》みも烟《けむ》たがりもせずに、恐悦してゆくのでありました。
 そのお君が、この若くて美しくて聡明の聞えある殿様の前へ出ることを戦《おのの》くようになったのは、ついこの二三日来のことでありました――それと同時に能登守の美しい面《かお》に重い雲がかかって、憂愁の色が湛《たた》えられるようになったのも、ふたつながら目に立つ変化でありました。
 人に面を合せない時は、お君は部屋に入って泣いているのであります。能登守は茫然として、何事も手につかずに考え込んでいることが多いのであります。
 今もこうして能登守は、同じような憂愁の思いに沈んで寝ることを忘れていました。この時、廊下を急ぎ足で忍びやかに走る人の気配《けはい》がありました。
 能登守が低《た》れた首を上げて、その人の足音を気にすると、
「殿様」
 障子を押しあけてこの一間へ入って来たのは、今まで泣いていたお君でありました。お君の振舞《ふるまい》はいつもとは違って、物狂わしいほどに動いてみえました。それでも入って
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