れば、このごろお邸のうちに噂《うわさ》のないことではありません。殿様がお君さんを御寵愛《ごちょうあい》になる……という噂が誰言うとなく、口から耳、耳から口へと囁《ささや》かれているのであります。
けれども、それがために誰も主人の人柄を疑う者はありませんでした。その地位から言えば諸侯に準ずべき人なのですから、幾多の若い女を侍女として左右におくことも、また妾としてお部屋に住まわしておくことも、更に不思議なこととは言えません。寧《むし》ろそういうことをせぬのが、その周囲の人から不思議がられるのでありました。
能登守は一人の奥方に対してあまりに貞実でありました。その奥方が病身なために能登守は、女房がありながら鰥《やもめ》のような暮らしに甘んじていることは、家名を大事がる近臣の者を心配がらせずにはおきません。
妾をおくことを、お家のための重大責任として家来が諷諫《ふうかん》したものでありました。けれども能登守は、それを悟らぬもののようであります。
お君を有野村の藤原家から呼び迎えたことが、誰からも勧《すす》めずに、能登守自身の発意に出たことは、家来の者を驚かすよりは、かえって欣《よろこ》
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