りませぬ……わたくしはお暇をいただきとうござりまする、わたくしはお暇をいただいて帰りまする」
 お君はついに堪《こら》えられず喚《わっ》と泣いてしまいました。
 ほどなく能登守は悄々《しおしお》として、お君の部屋を出て帰りました。
 もとの一間へ来て、火鉢の上に片手をかざして、前のように物思わしげに、まだ寝ようともしません。
 今の有様は、主従のところを換えたような有様であります。能登守としては思いがけない弱味でありました。お君としても思いきった我儘《わがまま》の言い分のように聞えました。
 能登守はかえって、お君に向って申しわけをし、或いは哀求するような物の言いぶりは歯痒《はがゆ》いものであります。お君は始終泣いて泣きとおしていました。見様によっては拗《す》ねて拗ね通しておりました。さすがに、能登守ほどのものが、そのお君の張り通した我儘に、一矢《いっし》を立てることができないで、悄々《しおしお》と引返すのは何事であろう。一廉《ひとかど》の人物のように言い囃《はや》された能登守、それをこうして見ると、振られて帰る可愛い優男《やさおとこ》としか思われないのであります。
 それと思い合わす
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