あります。
人を取立てたために、その競争者から恨まれるというようなこともまた、一つもないのでありました。
ここへ来てから能登守が取立てた人といえば――それはお君を、有野村の藤原家から迎えて来たくらいのものでありました。そのお君でさえ、どうしたものかいま主人に呼ばれたけれども返事がないのであります。お君のいるところにはムクもまた在《あ》らねばならぬはずでありましたけれど、今宵のような騒ぎの晩に門を守っていないから、ムクもまたこの邸にはいないものと思われても仕方がありません。
ややあって能登守は立って、この客間を出て廊下を通りました。
「君」
能登守が足を留めて障子を外から開いた部屋には、高脚《たかあし》の行燈《あんどん》が明るく光っておりました。
能登守はこの部屋の障子をあける時に、お君の名を呼びましたけれど、お君の声で返事はありませんでした。
お君の返事こそはなかったけれど能登守は、その部屋の中へ隠れるように入って、障子を締めてしまいました。
「お君」
と言って行燈の下に立った能登守は、そこに面《かお》を蔽《おお》うて泣き伏しているお君の姿を見たのであります。
お君は泣き
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