を聞いて、直ぐに次の間から返事のあるべきお君の声が聞えませんでした。
 能登守は重ねて呼びはしませんでしたけれども、所在なさそうにホッと息をつきました。斯様《かよう》に物案じ顔に頼りのない様子は、能登守としては珍しいことであります。
 破牢の責任をそれほど強く感じたものか、それとも江戸表に残し置いた奥方の病気が急に重くなったのでもあるか、そうでなければほかに何か軽からぬ心配事が起るでなければ、こうまで打沈むはずはないのであります。
 と言っても、そのほかに能登守を憂《うれ》えしむべきほどの大事は思い当らないのであります。神尾主膳の一派は最初から能登守を忌《い》み嫌うて、これが排斥運動を企てつつあることは、能登守も知らないではありませんでした。けれどもそれは能登守が決して相手になりませんでした。相手にならない者に喧嘩を売りかけることもできません。
 甲府に来て以来の能登守は、政治向きのことにはほとんど口を出しませんでした。旧来の組織に一を加えようとも二を引こうとも何ともしませんでした。支配は先任の太田筑前守の為すがままで、自分はただ調練と大砲の研究ばかりやっていました。それですから、かえ
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