まっちゃあなんにもならねえよ、もう少し生きてろやい、もう少し生きてろやい、おーい、おーい」
 米友は幸内の耳元へ口をつけて大声で呼びました。それにもかかわらず幸内は返事をしませんでした。返事をしないのみならずそのままで、だんだん冷たくなってゆくばかりでありました。
「冗談じゃあねえ、死、死、死んじまっちゃあいけねえよ」
 米友は何と思ったか、棒を腰に挟んで、幸内を引担いでドンドンと駈け出しました。無論ムクはそれに劣《おと》らず走《は》せ出しました。

         十

 その夜の騒ぎが、駒井能登守の許《もと》へ注進されると、能登守は衣裳を改めて出勤し、役向の差図をしました。
 それが済むと能登守は自分の邸へ帰って来ました。邸に帰って、客間の中に柱を負うて一人で坐っていました。前には桐の火鉢を置いて、それには炭火がよく埋《い》けてあります。そこへ坐って憮然《ぶぜん》としていた能登守の面《かお》には、なんとなく屈托の色が見えます。なんとなく心の底に心配が残っているもののようです。
「君、お君」
と、やがて能登守は、あまり高からぬ声でお気に入りのお君の名を呼びました。いつもならばその声
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