りゃ天神様だ、天神様の社《やしろ》に違えねえが、その天神様がどうしたんだ」
 米友は小田原提灯を翳《かざ》していると、やっぱり土を嗅いでいたムク犬は、急にその巨大な体躯《からだ》を跳上《はねあ》げて、社の左の方から廻って裏手へ飛んで行きました。
「ムク、待ちろやい」
 米友は急いでそのあとを追いかけて、この荒れたささやかな天満宮の社の後ろへ廻って見ると、後ろは杉の林であります。
 米友はムクを信じています。ムクの導いて行くところにはいつも重大の理由も事情も存するということを、米友はよく信じているが故に、五里霧中の上の闇の夜の杉林の奥をも、疑わずに踏み込んで行き得るのであります。

 ほどなく宇治山田の米友が、この杉の林を出て来た時には、背中に一人の人を背負っておりました。小さい米友の身体《からだ》に大の男を一人背負って、濛々《もうもう》たる霧と靄と闇との林を出て来ると、例のムク犬は勇ましく、またも前の天神の祠から松並木を、先に立って案内顔に走って行くのであります。
「待てやい、ムク」
 道の傍に井戸を探し当てた米友は、その前へ棒を突き立てて、
「この人に水を飲ませてやりてえんだ、俺《お
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