んでした。その中には火打道具も用心してありました。
 果してその犬はムクであります。
 ほどなく宇治山田の米友とムク犬とは、嬉《うれ》し欣《よろこ》んでその場を駈け出しました。
 しかし、例の靄《もや》は少しも霽《は》れる模様はなくて、いよいよ深くなってゆきそうであります。その靄の中で、あっちでもこっちでも、破牢、破牢、という声が聞えるのでありました。
 今や、米友にあってはそれらの声は問題でなくなりました。辻斬も牢破りも今はさして米友の注意を惹《ひ》くことがなく、ただムクの導くところに向って一散《いっさん》に走るのみでありました。
 ムクの導くところ――そこにはお君がいなければならないのであります。
 町筋はどうで、道中をどう廻ったか、米友はトンと記憶がありません。米友にあっては、ただムクを信じてトットと駈けて行くばかりであります。
「ムクやい、どうした」
 暫くして米友は足を止めました。それは今まで先に立って走っていたムク犬が、急にあるところで立ち止まったからであります。
 立ち止まったムク犬は、しきりに地を嗅ぎはじめました。地を嗅いでいたが何と思ったのか、真直ぐに行くべきはずの道
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