狂人もまた走るというのが、この晩の甲府の町の巷《ちまた》の有様でありました。段々《だんだん》の襟《えり》のかかった筒袖を一枚|素肌《すはだ》に着たばかりで、不死身《ふじみ》であるべく思わるる米友はまた、寒さの感覚にも欠けているべく見受けられます。
「やっしし、やっしし」
 米友はこういう掛け声をして極めて威勢よく駈け出して行きました。どこへ行くのだかその見当はつかないながら、その口ぶりによって見れば、いま破牢のあったことを彼は心得ているのであります。
 こうして駈けて行く米友が、途中で不意に、
「あ、あ、あぶねえ!」
と言って、弁慶が七戻《ななもど》りをするように後ろへ退《すさ》って、肩に担いだ棒を斜めに構えて立ちはだかったのは、奇妙であります。
 もちろん、そんなような晩でありましたから、先に何の敵が現われて、何のために米友が不意に立ちどまったのだかわかりません。ただ立ちどまって棒を構えた米友の権幕《けんまく》を見ると、それは冗談でないことがわかるのであります。
 担いだ時は棒であるけれども、構えた時は槍でありました。宇治山田の米友はこの時、冗談でなく槍をとって、それを中段に構えて待
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