だ、煙のようでもあるし、霧のようでもあるし、靄がかかったようでもある、行く先行く先がボヤボヤとして、前へ出ていいんだか、後ろへ戻っていいんだかわかりゃしねえや、大方、雲が下りて来たんだろう、ここは山国なんだからな、四方の山から雲が捲いて来て、甲府の町を取りこめたんだ。暗《くれ》えなら暗えで、我慢の仕様もあるけれど、暗えところへこんなものが舞い込んで来た日にゃあ、てんで提灯の火も見えやしねえ、お城の櫓《やぐら》がどの辺にあったんだか、その見当もつかねえんだ。こんな晩に牢破りをするなんというのは考えたもんだ、暴風雨《あらし》の晩よりまだ始末が悪いやな、大手を振って眼の前を歩かれたってわからねえやな、逃げられる方もわからねえから逃げる方もわからねえんだ。こうして歩いて行くうちに、犬も歩けば棒に当るということがあるから、なんでもかまわねえ、ドシドシ駈けろ、駈けろ」
 宇治山田の米友もまた、こんな口小言《くちこごと》を言いながら、闇と靄の中の夜の甲府の町を、例の毬栗頭《いがぐりあたま》で、跛足《びっこ》を引いて棒を肩にかついで、小田原提灯を腰にぶらさげて走って行く一人であります。
 狂人走れば不
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