を目当として靄の中を進みます。
「捕《と》った!」
「小癪《こしゃく》な!」
 そこで喧々濛々《けんけんもうもう》として一場の大挌闘が起ったようであります。
「提灯を! 高張を!」
 同勢が叫びました。提灯と高張とは一度にそこへ集められました。その光で、あたりの光景が紅《べに》を流したように明るくなりました。そこに一箇《ひとり》の囚徒が阿修羅《あしゅら》のように荒《あば》れています。
 その荒れている囚徒というのはすなわち、宇津木兵馬と室を同じうした、かの奇異なる武士でありました。仮りにその名を南条と呼ばれていた武士でありました。
 南条は左の小脇にまだ病体の宇津木兵馬を抱えながら、右の手と足とを縦横に働かせて、組みついて来る同心や手先や非人を取って投げ、蹴散らして、阿修羅のように戦っているのであります。
 南条は外まわりの総高塀《そうたかべい》を背にして、寄り来る人々を手玉に取りながら、一歩一歩と高塀の方へ押着けられて行くのであります。いや押着けられて行くのではない、自分からジリジリとさがって行くようであります。
 いよいよ南条はその塀際《へいぎわ》までさがった時に、手早く塀の一端へ
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