ある、お松、お松、いや女中共、女中共はおらぬか、其方《そのほう》共は主人の言いつけを聞かぬな、其方共までこの主膳を侮《あなど》ると見ゆるな」
神尾主膳は、また酔眼を据えて室内を睨《ね》め廻したが、
「はははは」
と高笑いをしました。
「違った、違った、ここは古屋敷であったな、なるほど、ここは躑躅ケ崎の古屋敷じゃ、ここには誰も召使はおらぬのじゃ、屋敷の中には無暗に物を斬りたい奴が一人いて、屋敷の外には法性狐《ほっしょうぎつね》がいる、そのほかには誰もいない、いないところへ物を言いつけた、これは拙者が悪い、どれどれ、大儀ながら御自身に立って、あの燈火を掻き上げにゃならぬ、燈火《ともしび》は暗し数行虞氏《すうこうぐし》が涙《なんだ》――」
こんなことを言いながら神尾主膳は、ふらふらと立って行燈の傍へ来て、燈心を掻き上げて火影《ほかげ》を明るくして、覚束《おぼつか》なくも油をさえ差加えましたから、四辺《あたり》は急に明るくなりました。
「はははは、現金なものじゃ、燈心を掻き立てて油を差したらば火が明るくなったわい、火が明るくなったから四辺の物がよく見えるわい、よく見えるけれども机はおらぬわ、竜之助が姿を見せぬわい、はて、この夜中に、どこへ行った、眼の見えぬくせに、はははは、眼が見えぬから夜と昼の区別がつかず、どこぞへ彷徨《さまよ》い出したかな」
神尾主膳には酒乱の癖があります。しかしこちらへ来てからは酒乱の癖が出るほどに酒を飲みませんでした。主膳もこれだけは多少謹慎の心があったのであります。それにどうしたものか今宵は、その酒乱に近いほど酒を過して来たもののようであります。
室内が明るくなると共に、主膳は四辺をまた見廻しはじめました。
「刀もある、槍もある、敷物もある、屏風《びょうぶ》もある……茶道具もあれば煙草盆まである、襖《ふすま》、唐紙《からかみ》……」
こんなことを言って室内を見廻した主膳の酔眼がトロリとして、室の片隅の長持の上へ落ちました。
「あ、あれだ、誰もおらぬと思うたのはこれも間違い、あの中に一人の男がいる、口の利けない男がいる、今それを引き出して玩弄《おもちゃ》にするのだ」
主膳は、またふらふらと立って長持の傍へ行きました。
「幸内、長持の中にいる幸内、これへ出ろよ、そのように長持の中に隠れてばかりいては窮屈であろう、貴様も若い身空《みそら》じゃ、そう長持の中に隠れていずと、ちっとは広いところへ出てこいよ、壺中《こちゅう》の天地ということもあるから、それは長持の中もよかろうけれど、若いのにそう隠れてばかりいては命の毒じゃ、それこそ長持ちがないぞ」
主膳は刀を提げて長持の中へ片手を入れました。その長持には蓋《ふた》がしてありません。蓋をしてない長持の中へ主膳は手を入れて、鼠を吊し出すような手つきをして、その襟髪《えりがみ》を取って引き立てたのは幸内であります。
かわいそうに幸内は、いまだにこの長持の中へ入れられてあったのであります。袋は被《かぶ》せられていないけれども痩《や》せきっておりました。両手は前に括《くく》られていました。両足は揃えて固く縛られてありました。争うにも力は尽き果て、物を言おうにも声が立ちません。
ズルズルと長持の中から幸内を引張り出した神尾主膳は、それを燈火に近いところへ持って来て、
「はははは」
主膳は幸内をそこへ引き倒して置いて、
「幸内、そちに窮命をさせて、拙者は気の毒に思う、そちには怨みも憎みもないのじゃ、これというのは名刀の祟《たた》り、小人罪なし珠を抱いて罪ありということがある、幸内罪なし刀を抱いて罪ありというのじゃ、伯耆《ほうき》の安綱が悪いのじゃから不祥《ふしょう》せい……それからまたお前の主人の伊太夫の娘、気の毒ながらお化けのような娘、あれを拙者が嫁にしたいと言うのは、抱いて寝たいからではないぞ、いとしい恋しいと思うからではないぞ、恥かしながら拙者はいま手許《てもと》が不如意《ふにょい》じゃ、伊太夫の財産に惚れたのじゃ、娘には恋なし、財産があるから恋ありと言わば言うものよ、ははははは」
主膳は憎らしい毒口を吐きかけました。幸内の口は声の立てられぬように薬を飲ませられてしまったけれど、その耳は、この毒口を聞き取ることに不足はないと見えます。
幸内は主膳の言葉を聞くと、その首を烈しく振って苦しげな表情をしました。その有様を、主膳は、やはり酔眼を張って見ていましたが、
「まあ聞けよ、悲しいことに九分まで運んだこの縁談が、きわどいところで壊《こわ》れそうじゃわい、ほかでもない、それは駒井能登めが為す業《わざ》じゃ、あの小賢《こざか》しい駒井能登が邪魔をして、惜しい縁談が壊れかかったわい、残念じゃ、腹が立ってたまらぬわい」
ここに至って神尾主膳は、正銘《しょうめい》
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