ふるえて、自分の面が火のようにほてるのに堪えられません。
駒井能登守は客間でお絹と対坐しております。
それは日本式の客間で、二人の間には桐の火桶が置いてありました。お絹は、いつぞやの甲州道中のお礼などを述べました。そうして後に、お絹が言い出したことは案の如く、神尾主膳のこのたびの縁談のことでありました。
「神尾も、ああして置きますると我儘《わがまま》が募《つの》って困りまする、わたしが参りましたのをよい折に、ぜひこの縁談だけは纏《まと》めて帰りたいのでございまする。筑前様にも、このことを大へんおよろこび下さいました」
こういう話でありました。能登守はそれを聞いて、
「それは慶《めで》たいことでござる、左様な慶たいことを何しに拙者において異議がござりましょう。して、先方のお家柄は?」
穏かにこう尋ねたのでありました。
「先方は、有野村の藤原の伊太夫の一の娘にござりまする」
「有野村の伊太夫の娘?」
「左様でござりまする」
「なるほど」
能登守は暫らく考えている風情《ふぜい》でありましたが、言葉をついで、
「あれは聞ゆる旧家でありましたな」
「仰せの通り、家柄では多分、この甲州に並ぶ者がなかろうとのことでござりまする」
お絹はやや誇りがおに答えました。
「その通り、伊太夫は拙者もよく存知の間柄、その家柄もよく承っているが、その息女にはまだお目にかからぬ」
「常には、あまり人中へ出ることさえ嫌うような娘でありましたが、このたびの縁談は、その当人が進みましたものでござりまする」
「それは何よりのこと。この縁談の仮親《かりおや》はどなたでござりまするな」
「仮親と仰せられまするのは?」
「神尾家と藤原家とには聊《いささ》か家格に違いがござるようじゃ、藤原家の息女が神尾家へ御縁組み致すには、仮親をお立てなさるが順序と考えられるが」
「恐れながら、家格の違いと仰せでござりまするが、あの伊太夫が家は、御承知の通り、葛原親王《かつらはらしんのう》いらいの家柄と申すことでござりまする、それに権現様以前より苗字帯刀《みょうじたいとう》は御免、国主大名の系図にも劣らぬ家柄でござりまする故に、神尾家にとって釣合わぬ格式とは存じませぬ」
お絹は、こう言って能登守から、家格の相違ということを言われたのに弁解を試みました。
「いやいや、そのことではない。およそ旗本の家が縁組みをするには、同じ旗本のうちか、或いは大名の家よりするか、さもなき時はしかるべき仮親を立てるが定め、その辺は御承知でござりましょうな」
「それは……」
と言ってお絹は、ややあわてました。
「まだそれまでには運んでおらぬのでござりまする……」
お絹が、それについてなお何かを弁明しようとする、その言葉の鼻を押えるように、能登守が、
「左様ならば取敢《とりあえ》ず、そのことをお取定《とりき》めあってしかるべく存じまする」
と言ってしまいましたから、お絹は二の矢が次《つ》げないようになりました。
「御親切のお心添えを有難く存じまする、よく主膳にも申し聞けました上で……」
お絹はこう言って辞して帰るよりほかはありません。能登守の言い分は正当であるにしても、せっかく使者に来たお絹にその言い分が快い感じを与えることができませんでした。ましてやこれが神尾主膳の耳に伝わる時は、憎悪となり怨恨《えんこん》と変ずることは目に見えるのであります。
八
神尾主膳はその晩、一人で躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷を訪ねました。酔っているもののように足許がふらふらしています。
「机氏、机氏」
いつも竜之助のいる屋敷へ、そのふらふらした足どりで入って来たけれども、そこに竜之助がいませんでした。
「竜之助殿、どこへ行った」
と言いながら、そこへドカリ坐ってしまい、それから酔眼を据《す》えて室内を見廻しました。
例の通り、丸行燈《まるあんどん》に火が入っているにはいたけれども、それは今や消えなんとしているところであります。
「いやに暗い火だ、明るくない燈火《ともしび》だ、もっと明るくなれ、明るくなれ」
主膳は燈火に向って、こんなことを言いました。その舌の縺《もつ》れ塩梅《あんばい》を見れば、かなりに酔っていることがわかります。
「誰もおらぬか、誰ぞ来い、あの燈火をもっと明るいように致せ、こんなにして燈心を掻《か》き立てるがよい、燈心を掻き立てさえ致せば、火はおのずと明るくなるのじゃ、早う致せ、誰もおらぬか、誰ぞ来い来い」
怪しげな呂律《ろれつ》で取留まりもなく言いました。そうして酔っぱらい並みに頭をグタリと下げたり、怪しげな手つきをして、その手をすぐに膝の上へ持って来て、狛犬《こまいぬ》のような形をしたりしていました。
「うむ、よし、誰も来ないな、来なければこっちにも了見が
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