、格子によりかかって仕事をしているのを認めました。
その奇異なる武士は、何かを以て、極めて小さな音を立てながら、牢の格子を切っているとしか見えません。言葉を換えて言えば、牢破りを企《くわだ》てつつあるとしか見えません。
あまりのことに兵馬は、蒲団《ふとん》を蹴《け》って、よろめく足を踏みしめて立ち上りました。
「南条殿」
兵馬はよろめきながら近寄って、牢の格子を切っている奇異なる武士の手を押えました。
「宇津木、起きてはいかん」
奇異なる武士は、兵馬に押えられても、別段に驚きはしません。
「南条殿、何をなさる、軽々しいことをなさるな」
兵馬はたしなめるように言いました。
「君の知ったことではない、身体に悪いから寝て居給え」
南条と呼ばれた奇異なる武士は兵馬の手を取って、牢の格子の角の隅をさぐらせました。兵馬はそこへ手を当ててみると、何かの刃物でズーッと横に筋が切り込まれてあります。その切込みはまだそんなに深くはありませんでしたけれど、退引《のっぴき》ならぬ破牢の極印《ごくいん》であることは確かであります。
「ああ、大胆なこと」
と言って兵馬は嘆息しました。
「二番の室でも、これをやっている、成敗《せいはい》ともに我々が引受けるから、まあまあ安心して寝て居給え」
奇異なる武士は騒ぐことなく、兵馬をなだめて、またも静かにその切込みへ刃物を入れました。その刃物というのは、前夜隣室の羽目の隙間から手に入れた鑢様《やすりよう》のものであります。兵馬は、その上にかれこれと言いませんでした。それは余人ならぬこの人が、かく決心して事をはじめた上は、いまさら自分が是非を論じても駄目だと思ったからであります。
「世が世ならばこんなことはしたくはないが、時勢を聞いてみると、どうしてもここに安んじてはいられぬのじゃ、文天祥《ぶんてんしょう》が天命に安んずるこそ丈夫の襟懐《きんかい》ではあるが、盗人の屋尻《やじり》を切るような真似をせにゃならぬのも時節。宇津木、君だからとて、そうそう正直に冤《むじつ》の晴れるのを待ってもいられまい。上に名判官ある世には、獄屋《ひとや》のうちにも白日の照すことはあろうけれど、ここらあたりでそれを望むは、百年富士川の流れが澄むのを待つのと同じこと」
南条と呼ばれた奇異なる武士は、こう言いながら静かに、格子の角を引いているのであります。
兵馬はぜひなく寝床の方へ退きました。兵馬は蒲団を引被《ひきかつ》ぎながら、格子の角に引かれる鑢の微《ちい》さな音を聞いていました。
兵馬は正直な心で、今まで待っていました。己《おの》れの疚《やま》しいことさえなければ、泰然として待っているうちに、天は必ず己れを助くるものだと信じていました。非法に囚われたけれど、自分は法を犯してそれを逃れようとはしませんでした。しかし今という今、その心に動揺が起らないわけにはゆきません。
七
駒井能登守は例の洋風に作った一間に籠《こも》って、このごろは役所へもあまり出勤せず、また調練も暫らく他の者に任せておきました。
この一間に籠った能登守は、人を諸方に遣《つか》わして土を集めさせています。自分もまた、思い立ったように外へ出ては土を集めて来るのであります。
集めた土を分析《ぶんせき》したり、また火にかけたりして験《ため》すことに、ほとんど寝食を忘れるくらいの熱心でありました。
能登守が預かって、城内の調練場で扱っている虎砲《こほう》十二|磅砲《ポンドほう》というようなのは、伊豆の江川の手で出来たものであります。伊豆の江川は能登守と同じく、高島四郎太夫を師とするものであります。能登守は甲府へ赴任の最初から、ここへひとつ、江川と同じようなものを建てたいと思っていたのでありました。それは自身で研究して自身で造り出した砲でなければ満足のできないほどに、能登守の砲術の愛好心は嵩《こう》じているのであります。
江川太郎左衛門が伊豆の韮山《にらやま》に立てたのは有名なる反射炉であります。江川がその反射炉を立てる時に最も苦心したのは煉瓦《れんが》でありました。煉瓦を作る土でありました。当時、外国から取り寄せることのできないために、江川はまず煉瓦から焼いてかからねばなりませんでした。その高熱に耐える煉瓦を焼くべき、土から求めてかからなければなりませんでした。
江川はようやくにしてその土を、天城山《あまぎさん》の麓と韮山附近の山田山というところから探し出して、煉瓦を作りました。その煉瓦は立派なものでありました。今日の進歩した耐火煉瓦に劣らぬほどの煉瓦を、当時、独創的に作り出したものであります。耐火試験によって、千七百度の高熱に耐えるということであります。千七百度の熱度は、白金の溶解度であります。
能登守は江川のその苦心を見
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