けつ》の下を戦乱の巷《ちまた》にしてしまった」
「うむ、うむ」
「しかし、さすが命知らずの長兵も諸藩の矢に攻められて、来島又兵衛は討死する、久坂玄瑞も討死する、福原、国司、益田の三家老は歯噛みをしつつ本国へ引上げるということになって、その後が長州征伐の結末は、毛利公の恭順と、例のその三家老の首を斬って謝罪するということで納まったそうじゃ」
 これらの話し声は、極めて小さい声で行われましたけれども、平談俗語《へいだんぞくご》の通り、尋常に聞き且つ答えることができました。
 話をしている間も、見廻りの来る心配はありません。ここの牢番もよく見廻りをするよりも、よく眠りたい方です。
「ははあ、それは一大事じゃ」
と言って、こちらの奇異なる武士は考え込みました。
「これで長州も寂滅《じゃくめつ》」
 えたいの知れない話し相手も、絶望したような声で言いました。
「いやいや、そう容易《たやす》くはいくまいよ」
 こちらの奇異なる武士は、存外、平気で答えました。
「どうして」
「長州の中にも、二派あるはずじゃ」
「左様」
「そうして幕府に恐れ入ってしまうのもあるだろうが、なかなかそれで承知のできぬ奴もあるはずじゃ」
「左様」
「例の高杉|晋作《しんさく》がこしらえた奇兵隊というのがある、あの辺のところが黙って引込んではいまいよ」
「なるほど」
「君は高杉を知っているか」
「知らん」
「老物《ろうぶつ》は知らん、若手では、あれが第一の男よ。あれのこしらえた奇兵隊というのは、他藩には、ちょっと類のないものじゃ」
「うむ、うむ」
 さきには向うが話の主でこっちが聞き手でありましたが、今度はこっちが話し手で、向うが聞き手になりました。
「長州には奇兵隊があり、薩摩には西郷吉之助のようなのがある、長州が本気で立てば薩摩が黙っていない、薩摩と長州とが手を握れば天下の事知るべし」
「面白くなるのだな」
「それは面白くなるにきまっているけれど、おたがいに籠の鳥だ」
「南条――」
 ここで両人の話が暫らく途切れました。話が途切れると獄舎《ひとや》のうちは暗くありました。こちらの室では兵馬の寝息、あちらでは同じ室に、また幾人いるか知らん、鼾《いびき》の声を立てているのさえあるが、それをほかにしては、いよいよ静かなものであります。
 こちらの奇異なる武士は、いよいよ近く羽目の透間《すきま》へ耳をつけた時に、
「南条――南条」
と向うから呼びましたが、
「手を出せ」
「うむ、うむ」
 こちらの武士は、耳を着けていたところより一尺ばかり下の透間へ手を当てると、その透間からスーッと抜き取ったのは、柄《え》のない一挺の鑢《やすり》のようなものであります。
「これはどうしたのだ」
「今いう贋金遣《にせがねづか》いという男が、そっとおれにくれたのだ、同じやつがまだ一挺ある、鋸《のこぎり》と鑿《のみ》と小刀《こがたな》と三様に使える」
「エライものを手に入れたな」
「それこそ天の与え」
「有難い、有難い」
と言って、こちらの奇異なる武士は、その鑢《やすり》を推戴《おしいただ》きました。
 この時に牢番の小使が咳をしました。もう大抵、話すべき要領は尽きたと見えて、それを機会《しお》に話は切れてしまいました。
 牢屋の形式は厳重でありましたけれど、中の見廻りはさほど厳重なものではありません。
 牢番の小使の老爺《おやじ》に金をやって頼めば、大抵のものは調《ととの》えてくれます、羽目の間から物のやりとりや、小さな声で話をすることなどは、ほとんど自由です。
 宇津木兵馬は、ここへ囚《とら》われて来る時に金を持って来ませんでしたけれども、その後、誰ともなく金を差入れてくれるものがあると見え、その小づかいが二両三両と兵馬に手渡されます。それも五両差入れたものがあるとすれば、そのうち二三両ずつ、誰か頭を刎《は》ねる者があるらしくありました。
 誰が差入れてくれるのだか知らないけれど、兵馬はそれがために、大へんに便宜を得ました。望みの物を買ってもらうこともでき、同室の人に融通することもできました。多分、七兵衛の仕業《しわざ》でありましょう。
 その兵馬は不幸にして、このごろ熱に冒《おか》されています。そうして枕が上らないでいるのを、例の同室の奇異なる武士が介抱していました。この奇異なる武士は、兵馬よりは先にこの室に入れられていました。それと同室して語っているうちに、兵馬はこの奇異なる武士の奇なることを感ぜずにはいられません。

 今日は少し快《よ》かったから起きてみました。夜は早く床に就きましたが、よく眠れました。夜中になって、ふと妙な音が耳に入りましたから目を覚まして、音のする方を見て、我知らず身を起しました。兵馬は半身を起して、怪しげな音の耳ざわりになるところを見ると、同室の奇異なる武士が
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