く思われて何事も起らなかったのが、その夜の市五郎と、お銀様と、お君との一行でありました。
市五郎の挙動から推せば、この二人をどこへつれて行って、どんな目に遭わせることかと思われたのに、案外にも、極めて素直《すなお》に駕籠に付添うて有野村へ入ってしまいました。
有野村へ入って、お銀様の屋敷へ送り込んでしまいました。これでは尋常の上の平凡であります。
お銀様とお君とがその屋敷へ送り届けられた前後には、もちろん伊太夫の家は鼎《かなえ》の沸くような騒ぎであります。前に幸内の行方《ゆくえ》が今以て知れないところへ、今またお銀様とお君との行方が知れなくなったということは、伊太夫はじめ、この大尽《だいじん》の家の一家と出入りの者を驚かせずにはおきません。
お銀様もお君も、出る時は誰にも断わらないで出て行きました。ほどなく帰るつもりでしたから黙って行きました。お君は誰にか一言《ひとこと》言い置いて出ようと言ったのを、お銀様が無下《むげ》に斥《しりぞ》けてしまいました。それだから屋敷では誰あって、二人がいつごろ、どこへ行ったかを知るものはありません。召使の女のうちに、お銀様とお君さんとがお対《つい》の着物を着て紫の頭巾を被って、裏の林の中を脱けておいでなすったのを見たというものがあったというぐらいのものであります。
なかにはお君がお銀様を嗾《そそのか》して、一緒に駈落《かけおち》をしたのではないかと言っているものもありました。君ちゃんはそんな子ではない、お嬢様があの通りの気むずかし屋だから、無理にお君さんを引きつれてお出かけになったのだと弁護するものもありました。
人が諸方へ飛びました。そうして甲府の市中へ入ったということがわかり、甲府の市中へ入って八幡様へ参詣をしたということもわかり、そこでお御籤《みくじ》を取ったということもわかりました。それまではわかったけれども、それから後が更にわかりません。ところがその八幡様でもまた一つの騒ぎがありました。それは油注《あぶらつ》ぎの男が、油買いに出たまま帰って来ないということであります。
それやこれやで、尋ねに行った人は途方に暮れ、馬大尽の家の混乱はいや増しに増してきました。
そこへ役割の市五郎が、悠々として両人の駕籠を送り込んだのでありましたから、市五郎がここでどうしても器量を上げないわけにはゆきません。実際、市五郎はこの時、馬大尽の一家一門の者からも、村中の者からも、神仏のように思われてしまいました。市五郎の身体から後光《ごこう》がさすように見えてしまいました。
下へも置かないもてなしというのはこのことであります。ことにお銀様が悪い折助にからかわれていらっしゃるところを、この親方が通りかかって助けて下さったという物語りは、市五郎を武勇伝の主人公のように、村の人から崇拝させることになってしまいました。
市五郎は、自分の手柄を自分からはあんまり語りませんでした。馬大尽《うまだいじん》の一家一門の人が、さまざまに待遇《もてな》すのを強《た》って辞退して帰ることにしました。ぜひに一泊をすすめるのを断わって帰る時分には、市五郎の駕籠が提灯で隠れるほどに見送りがついて参りました。
その翌日は釣台が幾台も市五郎の宅まで運ばれ、羽織袴で親類や総代が、市《いち》の立ったほどにお礼を述べに来ました。
市五郎はこうして馬大尽の家から感謝を受け、それから同家へしばしば出入りをすることになりました。そうして主人の伊太夫と親しくなりました。伊太夫は市五郎を信用し、市五郎はよく伊太夫の意を迎えることができるようになりました。
市五郎がその後、しばしば伊太夫の許へ出入りする間に、伊太夫に向って一つの内談《ないだん》を持ち込みました。内々で伊太夫が何というか、それを聞いてみたいような口吻《くちぶり》であります。
それは意外にも縁談のことであります。
「お嬢様もお年頃でございますから」
と言い出した時に、さすがに伊太夫は苦《にが》い面《かお》をしました。
その苦い面を見て、市五郎も話しにくいのを強《し》いて一通り話してしまうと、伊太夫の苦い面が少しく釈《と》けかかってきました。
「お組頭で神尾主膳殿……」
と言って腕組みをしました。伊太夫の顔色が和《やわら》いだのを見て、市五郎はその目をそらさぬように、
「もとはお旗本のお歴々でございます、お使い過ぎでこちらへおいでになったくらいでございますから、苦労人でございます、人間が捌《さば》けておいでなさいます、物の酸《す》いも甘《あま》いもよくわかっておいでなさるお方でございます、もう御当家のこともお嬢様のことも万々《ばんばん》御承知の上で……」
と言って媒人口《なこうどぐち》らしい口を利きました。さてはこの男の縁談というのは神尾主膳へ、この家の娘のお銀様を縁づ
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