また》の折助が、遠慮のない馬鹿話をしたり高笑いをしたりするのがよく聞えましたけれど、女の声としては更に聞えることがありません。
 米友はついに怺《こら》え兼ねて、その杖を塀のところに立てかけて、それに足をかけて飛び上りました。天性の敏捷な米友は易々《やすやす》と塀を乗り越えてしまいました。塀を乗り越えるとその杖を上から引き上げて、屋敷の中の井戸端からソット忍びました。
 ここは、折助どもの集まっている、いわゆる大部屋であります。昼のうちはそんなでもなかったのが、いつ集まったか、盛んな人集《ひとだか》りで、一方の隅にかたまって博奕《ばくち》に夢中なのもありました。真中どころにごろごろして竹の皮包みの餡《あん》ころかなにかを頬張りながら、下卑《げび》た話をしてゲラゲラ笑っているのもあります。
 博奕の方ではスポンスポンと烈しい音がしていました。今まで着ていた唐桟《とうざん》の着物を脱いで抛り出すのもあり、縮緬《ちりめん》の帯を解いて投げ出すのもありました。
 こちらで寝転んで、餡ころを頬張りながらゲラゲラ笑って下卑た話をしているのが、米友の耳によく入ります。米友は戸の節穴《ふしあな》からそっと覗《のぞ》いていると、蜜柑箱《みかんばこ》を枕にした折助が、
「はくしょッ」
と咳をしました。
「風邪《かぜ》を引いちまった、飛んでもねえところで泳ぎをさせられちまったから、風邪を引いちゃった」
と言いました。
「は、は、は」
と一人の折助が高笑いをすると、
「あっぷ、あっぷ」
と、もう一人の折助が水に溺れるような形をしました。
「笑いごとじゃあねえ、全く命がけの狂言よ、二朱じゃやすい」
と風邪を引いた折助は、さのみ浮き立ちません。
「全く笑いごとじゃあねえ、親方にいいところを買って出られて、こっちはまるっきり儲《もう》からねえ役廻りだが、そのなかでも、兄いが儲からねえ方の座頭《ざがしら》だ」
「そりゃそうよ、手前たちは、痛くねえように二つばかり殴《なぐ》られたんで事が済んだけれど、俺らときた日にゃあ御丁寧に、お濠の中で涼ませられたんだ」
「仕方がねえ、頼まれりゃ水火の中へも飛び込むということがある」
「そこが男だ」
「ふざけるない。そうして骨を折っておけば、骨を折っただけのものはあるだろうと思っていたら、何のことだ、手前たちと同じように二朱の頭だ。結局、看板をだいなしにしたのと、寒い思いをしたのとが儲けもんで、風邪を引いたのが利息だ、ばかばかしいっちゃあねえ」
「ははははは」
 折助どもは、愚痴を言っている折助を笑いました。
「いったい親方は、あんな狂言をして、あんな化物娘を引張り込んでどうする気だろう、姉御の縹緻《きりょう》だってマンザラではねえし、どうも役割の気が知れねえ」
「そりゃお前、なんだな、あれはおトリ[#「トリ」に傍点]というものさ。あれをああしておトリ[#「トリ」に傍点]にしておけば、それ案《あん》の定《じょう》、あとから音色《ねいろ》のいいのがひっかかって来ようというものじゃねえか。けれどもこりゃ、役割が色に転んだ狂言じゃあねえ、慾にかかった仕事だよ」
「なるほど」
 米友は、折助どもの話を聞いてギクリとしました。
 米友は大部屋から奥の方へソロソロと歩み出します。今の話によっても、ぜひぜひこの家に突き留めねばならぬものがあることは、充分に合点してしまいました。
 米友はそこやここをウロウロと歩いて、戸の節穴や壁の隙間を覘《ねら》っていました。誰かに見つかればまさしく泥棒の仕業であります。しかしもう心のいっぱいに張りきっている米友は、更に疑惧《ぎぐ》するところがありません。戸でもあいていたなら、そこから家の中へ入ってしまったでしょう。けれど、戸はよく締めてあり、節穴もないことはないし、壁の隙間もあるにはあったけれど、中は障子が立てきってあったり、真暗であったりして、どうも思うように家の中を窺《うかが》うことができません。
 もしも、それらしい女の声でもしたらと、耳を戸袋へ密着《くっつ》けたりなどしましたけれども、それらしい声も聞えません。米友はこうして家の周囲を一通り廻ってしまいました。
 今度は縁の下へ潜《もぐ》ってみようと思いました。短躯《たんく》にして俊敏な米友は、縁の下を潜るのにことに適当しております。
 米友が縁の下へ潜ろうとした時に、表の方で人の声がしました。
「へえ、お迎えのお駕籠《かご》でございます」
 縁の下へ潜りかけた米友は、その声を聞き咎《とが》めて耳を引立てたが、急に縁の下へ潜ることを見合せて、その声のした方へ出かけました。米友は立木の蔭から、今この家の表へ来た駕籠と駕籠舁《かごかき》とをじっと見ていました。駕籠が二挺釣らせてありました。人足は提灯を持ったり、息杖《いきづえ》をかかえたり、煙草を喫ん
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