悠々と脂下《やにさが》っていました。

         三

 宇治山田の米友は、この時分に八幡宮の境内を出て来ました。米友は油を買うべく、町へ向って出かけたのであります。
 町へ出る時にも、やっぱり米友は烏帽子《えぼし》を冠《かぶ》って白丁《はくちょう》を着ておりました。それから例の杖に油壺をくくりつけて肩に担《かつ》いでおりました。今夜もまたでえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]の来襲に備うべく、燈籠《とうろう》の番をする必要があればこそ、油を買いに行くのであります。
 でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]というのはそもそも何者であろうかというに、これは伝説の怪物であります。素敵《すてき》もない大きな男で、常に山を背負って歩いて、足を田の中へ踏み込んで沼をこしらえたり、富士山を崩して相模灘《さがみなだ》を埋めようとしたり、そんなことばかりしているのであります。
 でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]という字には何を当箝《あては》めたらよいか、時によっては大多法師と書きます。ところによってはレイラボッチとも言います。そんなばかばかしい巨人があるわけのものではないけれど、諸国を旅行したものは、どこへ行ってもその伝説を聞くことができます。今でも土地によってはその実在をさえ信じているところもあるのであります。でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]が八幡様へ喧嘩を売りに来るという伝説の迷信が取払われないから、米友は今夜も燈籠へ火を入れなければなりませんでした。
「でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]もでえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]だが、八幡様も八幡様だ」
 米友はブツブツ言いました。実際、米友の粗雑な頭でさえも、でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]の実在を信じきれないのであります。わざわざ眠い眼を擦《こす》って、実際有るか無いかわからないものの来襲に備えているということは、かなりばかばかしいものだと思わないではありませんでした。
 しかし、米友はいま宮仕《みやづか》えの身であります。ばかばかしいからと言ってそれを主張した日には、また追い出されてしばらくは路頭に迷わねばならないと思って、これまでずいぶん追い出されつけていただけに、多少身にこたえがあるから、ばかばかしいはばかばかしいなりに辛抱して、その油買いにも行き、油差しもしようというものであります。
「油買いに茶買いに、油屋の縁で辷《すべ》って転《ころ》んで、油一升こぼした」
と町の子供が、米友が油を買いに出たところを見て囃《はや》しました。
 米友は、それに取合わないで澄まして歩きました。子供らにとっても大人にとっても、米友が油買いに行く形はおかしいものでありましたろう。
 八幡の社を出て米友は三の堀を、廓《くるわ》の中へと行きました。廓を抜けて町の方へ行こうとして、竪町《たてまち》の正念寺の角を曲って二の堀の際《きわ》を歩いて行くうちに、米友は、
「あっ」
と言って立ち止まりました。
 そうして猿のような眼を円くして、しきりに御門の橋のあたりを見つめていました。
「あっ、ありゃ」
と言って吃《ども》りました。吃った時分には、いま米友が見かけた人影は、御米蔵《おこめぐら》の蔭へ隠れてしまいました。その人影の隠れた御米蔵をめざして、米友は一目散《いちもくさん》に駆けて行きました。
 その挙動は、かなり粗忽《そそ》っかしいものであります。ついには油壺が邪魔になるので、その油壺を振り落して堀際を駆けました。米友の身にとっては油壺も大切ですけれどもその油壺を抛り出してさえ、なお追い求めようとするものがあったと見なければならぬ。ほかでもない、米友は今ここで計《はか》らずもお君の姿を認めたからであります。
 米友がその不自由な足を引きずってわざわざ甲州まで来たのは、一《いつ》にお君を求めんがためでありました。米友にとってお君は唯一《ゆいつ》の幼《おさ》な馴染《なじみ》であり、お君にとっても米友は唯一の幼な馴染でありました。米友は、今しばらく旅費に窮したから八幡宮に雇われましたけれど、いくらか給金が貯《たま》ればそれを持って、お君を探しに行くつもりなのであります。
 それだから、いま認めたそれがお君であったとすれば、もう油壺などは問題にならないはずであります。
 息を切って米友が馳せつけたのは、例の役割市五郎の宅の裏手。
「こんにちは」
 米友は、せいせい言って、そこに庭を掃いていた折助に挨拶しました。
「何だ」
 折助は米友を見て怪訝《けげん》な面《かお》をしました。
「少しお聞き申してえことがあるんだ」
 米友は唾《つば》を飲んで咽喉を湿《うる》おしました。
「何だ何だ」
 折助は米友が、あんまり一生懸命に見えるから笑止《しょうし
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