とてなにほどのことかあらん、この場合においては機先を制して彼を打ち倒すよりほかはないと覚悟をしました。それで南条の後ろから、ひそかに鉄の棒を取り直して、
「や!」
と言って能登守めがけて打ってかかろうとすると、
「まあ待て」
 南条はあわててそれを抑えました。
 その時に能登守は銃を本式に構えて、いま飛びかかろうとする五十嵐の肩のあたりに覘《ねら》いを定めながら、
「一寸も動くことはならぬ、何者であるか、そこで名乗れ」
 この時、南条は急に言葉を改めて、
「お察しの通り、我々は余儀なく甲府の牢を破って、追い詰められ、心ならずも御当家へ忍び入り申したる者、貴殿は当家の御主人でござるか」
「いかにも拙者が当家の主人」
「当家の御主人ならば、もしや……駒井甚三郎殿ではござらぬか」
「ナニ?」
「駒井甚三郎殿ならば、御意《ぎょい》得たいことがござる、よく拙者が面《おもて》を御覧下されたい」
と言って、南条は蝋燭《ろうそく》で自分の面《かお》を焼くばかりにして、じっと能登守に振向けていました。
「おお、御身は亘理《わたり》」
 能登守は篤《とく》と南条の面を見つめた後に、言葉がはずみました。それと共に構えていた鉄砲を取卸《とりおろ》して、
「君はここにいたのか、この甲府の牢内にいたのか、それとは少しも知らなかった、今宵《こよい》牢を破った浪士の頭は南条、五十嵐という両人の者とは聞いていたが、その一人が君であろうとは思わなかった。君もまた、駒井甚三郎が能登守といってこの甲府の城にいるということは気がつかなかったろう。しかも知らずしてその屋敷まで逃げて来たことが、いよいよ奇遇じゃ。ともかくもこっちへ来給え」
 この打って変った砕け様は、南条を驚かしたより多く五十嵐を驚かしてしまいました。呆気《あっけ》に取られていた五十嵐を無雑作《むぞうさ》に拉《らっ》して、能登守が招くがままに、南条は旧友に会うような態度でその方へと進んで行きました。外はやっぱり靄で巻かれているのに、ここでも煙に巻かれるような出来事が起りました。

 南条、五十嵐の二人は、宇津木兵馬をも携《たずさ》えて、能登守に導かれてこの廊下を渡って行ってしまった時分に、廊下の縁から黒い者が一つ、ひょっこりと現われました。
 縁の下の役廻りは斧九太夫以来、たいてい相場がきまっているのであります。これは手拭で頬被《ほおかぶ》りをしていましたけれど、その挙動によってもわかる通り、さいぜんからこの辺に忍んで、何か様子を探っていたものらしくあります。廊下の下から本邸の方を見上げて、なおキョロキョロしている面を見れば、それは役割の市五郎の手先をつとめている金助という折助でありました。
 金助は廊下の縁の下から顔を出したけれども、また暗の中へ消えて姿が見えなくなりました。しばらくすると奥庭の方へそっと忍び入って、また縁の下へ潜《もぐ》ろうとする気色《けしき》であります。首尾よく縁の下へ潜り了《おお》せたか、それともその辺に忍んで立聞きをしているのだかわかりませんが、とにかく、それっきり姿を消してしまいました。
 ややあって、ウーとムク犬の唸《うな》る声がしました。いったん米友をつれて帰って来たムク犬が再びどこかへ行って、また立戻って来たものと見えます。この唸る声を聞くと、あわてふためいて縁の下から転がり出したものがあります。それは以前の金助でありました。
 金助の狼狽の仕方は夜目にもおかしいくらいであります。二三度ころがって、やっと塀まで行くと、塀際の柳の木へ一生懸命で走せ上ってしまいました。柳の木へ登ると共に、塀へ手をかけて飛び移って、塀を乗り越えて往来へ出て、それからあとをも見ずに一散に闇と靄との間を走りました。その勢いは脱兎の如くであります。
「ああ危ねえ、今夜という今夜は、犬もいねえし、首尾も大分いいから、思い通り忍び込んで、さあこれからという時分に、また犬が出やがった。ほんとにあん畜生、俺の苦手《にがて》だ」
 五六町も走ったあとで、とある町の角の火の見梯子の下に立って、金助はホッと胸を撫《な》で下ろしました。胸を撫で下ろしながら、またムク犬が追っかけて来やしないかと、キョロキョロと逃げて来た方向を見廻して、万一その辺からワッと面を出した時分には、直ぐにその火の見の半鐘のかかった梯子へかけ上ろうとする用心は、かなり抜からないものです。
「はははは、まず人に見られなくってよかった。夜這《よばい》に出かけて犬に追っ飛ばされた図なんぞは、あんまりみっともいいもんじゃあねえ、仲間の折助どもに見られでもしてみろ、いいかげんお笑いの種だ」
と言って、金助は自分で自分を嘲笑《あざわら》いをしました。この独白によって見ると、金助は誰かの頼みを受けて駒井能登守の挙動を探りに来たものではなく、その目的は全く別
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