とうとうみんな取逃がしてしまったということであります。
 多分逃げた先は長禅寺山の方に違いなかろうというので、その方へ追手が向いました。しかし廓《くるわ》の内、町の中とても油断がならないというので、その方へも追手が廻りました。
 お組屋敷の人たちは総出でその追捕方《ついほかた》に向っているために、家庭においては出陣の留守を預かるような心持で、眠るものとては一人もありません。
 少年たちも父兄のあとを追うて出かけようとする者もあったけれど、それは差留められて、その代りに附近の警戒をつとめることになりました。
 逃げた先はたいてい山の方だろうとは誰も想像するところでありましたが、この通りの闇のことですから、たとえ御城内へ逃げ込んだところでその姿を認めることはできません。たとえまた廓内の武家屋敷の方へ走ったにしろ、または市中へ走ったにしろ、やはり人影を見て追跡するというわけにはゆきません。右往左往に人は飛んだけれど、たまたま行会えばこの少年たちのようなのや、かの子供を背負うたきちがいのようなのや、そうでなければ御同役の鉢合せのようで更に手ごたえがありません。

「いったい、こりゃ何というもんだ、煙のようでもあるし、霧のようでもあるし、靄がかかったようでもある、行く先行く先がボヤボヤとして、前へ出ていいんだか、後ろへ戻っていいんだかわかりゃしねえや、大方、雲が下りて来たんだろう、ここは山国なんだからな、四方の山から雲が捲いて来て、甲府の町を取りこめたんだ。暗《くれ》えなら暗えで、我慢の仕様もあるけれど、暗えところへこんなものが舞い込んで来た日にゃあ、てんで提灯の火も見えやしねえ、お城の櫓《やぐら》がどの辺にあったんだか、その見当もつかねえんだ。こんな晩に牢破りをするなんというのは考えたもんだ、暴風雨《あらし》の晩よりまだ始末が悪いやな、大手を振って眼の前を歩かれたってわからねえやな、逃げられる方もわからねえから逃げる方もわからねえんだ。こうして歩いて行くうちに、犬も歩けば棒に当るということがあるから、なんでもかまわねえ、ドシドシ駈けろ、駈けろ」
 宇治山田の米友もまた、こんな口小言《くちこごと》を言いながら、闇と靄の中の夜の甲府の町を、例の毬栗頭《いがぐりあたま》で、跛足《びっこ》を引いて棒を肩にかついで、小田原提灯を腰にぶらさげて走って行く一人であります。
 狂人走れば不狂人もまた走るというのが、この晩の甲府の町の巷《ちまた》の有様でありました。段々《だんだん》の襟《えり》のかかった筒袖を一枚|素肌《すはだ》に着たばかりで、不死身《ふじみ》であるべく思わるる米友はまた、寒さの感覚にも欠けているべく見受けられます。
「やっしし、やっしし」
 米友はこういう掛け声をして極めて威勢よく駈け出して行きました。どこへ行くのだかその見当はつかないながら、その口ぶりによって見れば、いま破牢のあったことを彼は心得ているのであります。
 こうして駈けて行く米友が、途中で不意に、
「あ、あ、あぶねえ!」
と言って、弁慶が七戻《ななもど》りをするように後ろへ退《すさ》って、肩に担いだ棒を斜めに構えて立ちはだかったのは、奇妙であります。
 もちろん、そんなような晩でありましたから、先に何の敵が現われて、何のために米友が不意に立ちどまったのだかわかりません。ただ立ちどまって棒を構えた米友の権幕《けんまく》を見ると、それは冗談でないことがわかるのであります。
 担いだ時は棒であるけれども、構えた時は槍でありました。宇治山田の米友はこの時、冗談でなく槍をとって、それを中段に構えて待《まち》の位に附けたのは、正格にしてまさに堂に入れるものであります。一口に米友と言ってしまえば、お笑いのようなものだけれども、ひとたびこうして本気になって槍を構えた時の米友は、また尋常の米友ではありません。しかしてこの米友は、曾《かつ》てこういう正格な構え方を、咄嗟《とっさ》の間《かん》に見せたことは幾度もありませんでした。
 東海道の天竜川のほとりの天竜寺で米友は、心ならずも多勢を相手にして、その盗人《ぬすびと》の誤解から免《のが》れようとしました。その時は遊行上人《ゆぎょうしょうにん》に助けられました。
 甲州街道の鶴川では、雲助どもを相手に一場の修羅場《しゅらば》を出しました。その時は彼等をばかにしきって、乱雑無法なる使い方をして荒れました。この間は折助と、あわや大事に及ぼうとした途端に、屋根へ上って巧みに逃げてしまいました。
 今や、その時のような放胆な米友ではありません。
 待《まち》の槍には懸《かかり》の槍が含んでいるのであります。その両面には磐石《ばんじゃく》の重きに当る心が籠《こも》っているのであります。不思議なる哉《かな》、ほとんど師伝に依ることなき米友は、三身三剣の
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