のいいのを探してみな」
お君のことを言い出すと、米友は必ず侮辱されてしまいます。前に両国の軽業《かるわざ》の小舎《こや》へ訪ねて行った時も、美人連のために手ヒドク嘲弄されました。
短気の米友が、ここで折助連と衝突を起さなかったのは不思議であります。しかし、米友もこのごろでは、短気がいつでも自分に好い結果を来さないことを少しは悟《さと》ったのか、争っても到底、折助が自分の言うことを相手にしないのを見て取ったのか、口が吃《ども》って利けないほどに憤慨しながら、悄々《しおしお》としてそこを引上げたのであります。
引上げるには引上げたけれども、確かに米友はお君を見たのです。お君が堀端をあちらこちら歩いている時に、一人の男が来てお君に何か言って、お君を連れて行くのを見かけたから、それで油壺を抛り出して追いかけて、この家へ連れ込まれたのを、確かに見たのでありますから、その場は立ち去ったけれども、到底この屋敷から眼と心とを離すわけにはゆきますまい。
しばらくその屋敷の周囲を彷徨《さまよ》うていた米友は、物蔭へ入って烏帽子《えぼし》と白丁とを脱いでクルクルと丸めて懐中《ふところ》へ入れました。それからこの屋敷の前にあった縄のれんの一ぜん飯屋の前を二三度|往来《ゆきき》しましたが、思いきってその中へ入って空樽へ腰をかけてしまいました。米友はここで一ぜん飯を食いはじめました。一ぜん飯を食いながらも、役割の屋敷からちっとも眼をはなすことではありません。けれどもいったん入ったお君の姿は、この家のどちらからも外へ出た模様はありません。一ぜん飯を食い終った米友は、なお暫らく腰をかけて、縄のれん越しに市五郎の宅ばかりを見ていました。そのうちに日が暮れかかって、四方《あたり》が薄暗くなりました。飯屋の親方は掛行燈に火を入れました。
米友はようやく気がついたように、四方を見廻して、
「ああ、俺らも燈籠へ火を入れるんだった」
と急に考えて飛び上りました。
けれども、燈籠に火を入れることはもはや米友の責任ではありません。ただ偶然、その責任に驚かされてこの一ぜん飯屋を飛び出した米友は、役割の家の塀の辺《あたり》をグルグルと廻っていました。
ちょうど、黄昏時《たそがれどき》であることが、米友にとっては仕合せでありました。塀のまわりや壁の下に身を摺《す》りつけて、中の様子を伺っていると、数多《あ
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