手をかけました。その手をかけたことによって気がつけば、見上げるような高い塀の上から、一条の縄梯子《なわばしご》が架け下ろしてあります。
 この縄梯子は尋常の梯子よりは大へん狭いものでありました。狭いものであったけれども、かなり丈夫に見えました。
 それは尋常の縄ではありません。このとき思い当るのは、手内職というてこの奇異なる武士が、暇にまかせて拵《こしら》えておいた紙撚《こより》であります。その紙撚がここに梯子となって利用されているものとしか見えません。
 片手と片足とをその縄梯子にかけた時、
「捕った!」
 もうその前後から蝗《いなご》のように捕方《とりかた》が飛びつきました。
 この時、どこから来たか一隊の人が闇と靄との中から打って出でました。
 彼等は物をも言わず牢屋同心や牢番や小使や非人の中へ打ってかかりました。手には丸太や板片《いたきれ》を持っているものもあれば、同心や牢番を叩き伏せてその得物《えもの》を奪うて働くのもあります。
 言うまでもなくこれは第二番室の破牢の一組で、先に立って指揮するのは武士体《さむらいてい》の屈強な壮者でありました。
「弥兵衛殿、お前は南条と一緒に宇津木君を助けるがいい、あとは我々が引受ける」
「それではひとつそういうことにお願い申します」
 弥兵衛と呼ばれた男の駈け出すのを認めた非人が、
「やい、貴様は贋金使いの野郎だな、逃すこっちゃあねえ」
 前後から組みついて来たのを、
「邪魔しやがるな」
 贋金使いは二人を投げ飛ばしました。
「南条様、兵馬様を私にお渡しなさいまし、私の方が身軽でございますから、さあお出しなさいまし」
 贋金使いは絡《から》みつく奴を蹴飛ばして、奪い取るように兵馬の身体を南条という武士の手から受取って、一本背負《いっぽんじょ》いに背中へ引っかけて、それと同時に片手を懐ろへ入れるやヒューと塀に向って投げたのは一筋の細引であります。その細引が弓の弦《つる》のように張っているのを伝わって矢のように早く、見上げるような高塀を上って行ったその身の軽いこと、業《わざ》の早いこと。
 それを見届けてホッと息を吐《つ》いた南条という壮士は、多勢の中へ躍り込んで、非人の持っていた六尺棒を奪い取り、
「五十嵐!」
と一声叫ぶと、
「おうー!」
 ほど遠からぬところで勇ましい返事。

 徽典館《きてんかん》の少年たちが家路へ帰
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