りがけに、猛然たる犬の吠え声に驚かされたのは、牢内にこの騒ぎが起ったのと前後しての時であります。
暫らくして町々を縦横無尽に人が走りました。彼等がいま帰って行こうとする方向から夥《おびただ》しき人が走って来て、ただでさえ霧中に捲かれている彼等をひきつつんでしまいました。
「ど、どうしたのだ、何事だ」
「破牢、破牢、破牢」
少年たちは丸くなって、そうして自分たちを取囲んだ慌《あわただ》しい人々に詰問の矢を放ちながら、おのおのその帯刀へ手をかけました。その理由はすぐ判明し、嫌疑はたちどころに晴れてしまいました。
取囲んだのはお組番や牢屋同心。彼等を取囲んで仔細に検分したのは、もしやと破牢の罪人を取調べのため。
そこで少年たちは、今夜という今夜は、いよいよ容易ならぬ晩であることを知りました。これは片時も早く家路に帰った方が無事だとの考えを起しました。しかしながら、遠くもあらぬお代官陣屋の方まで帰るには、これから、また幾度も改められ調べられることであろうと聞かされて、飛んだ迷惑なことだと、一同は苦笑いをしながら、またも例の靄《もや》の中を泳ぐようにしてその場を歩き出しました。
彼等はこうして無事に、それぞれの家へ帰るには帰ったけれども、帰って見ると家の方の騒ぎはまた一層であります。
彼等の父兄というのは、牢屋に関係を持ったお組屋敷の者が多かったから、帰って聞くとその騒ぎは容易なものではありません。
破牢は一番二番の室で、逃げ出したものは一番室で二人、二番室で八人、都合十人ということです。その計画はズット前から企《たくら》まれていて、両室共に牢の格子が鋭利なる鋸《のこぎり》の類で挽《ひ》き切られていたのを、飯粒で塗りつぶして隠しておいたということ。そうしておいて今夜のような靄の深い晩を待っていたらしいということ。その首謀者は予《かね》て東北の方からこの甲州へ入り込んで、甲州の地勢を探っていたために囚《とら》われた二人の怪しい浪士であって、それに力を添えて、刃物を供給したりなんぞしたのは、近ごろ入った贋金使いの男であるということ。幸いに牢番が発見した時分には、一の構内から外まわりの高塀を乗り越えようとして、まだその辺にうろついていたということ。不幸にして彼等の手が利いていて、人数の気の揃い方が上手であり、捕方の方が狼狽《あわ》てて、それにこの通りの靄であったから、
前へ
次へ
全95ページ中62ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング