て、なおよく格子の間から覗いて見て、
「おや?」
と言って仰天しました。
 この時分、牢屋の外も、同じように墨と胡粉《ごふん》で塗りつぶした夜の色で包まれていました。
「破牢《はろう》、破牢、牢破り!」
 この声が牢屋の中のすみから起ると共に、牢の内外の泰平は一時に破れてしまいました。
「スワ!」
という騒ぎ。高張《たかはり》がつき提灯がつき、用意の物の具が、物すさまじい音をして牢屋同心の人々の手から手に握られました。
 けれども靄《もや》が深いから、高張も提灯もその光が遠く及ばないのであります。人々の騒ぐのも、ただ電燈の消えた湯屋の流し場の中で騒ぐのと同じことで、おたがいの姿を見て取ることができません。況《いわ》んや破牢の者共は、どの道をどの方向に逃げたのか、サッパリその見当もつきません。
「出合え、出合え」
という声が北の方の外まわりの高塀の下で聞えましたから、同勢はその声をしるべに、同じ方向へ駈けて行きました。
「待て!」
と言う声が聞えました。
「うーん」
とうなる声と共に、ドサリと人の倒れる音がしました。
「どこだ、どっちへ逃げた」
 同勢はその唸《うな》る声と、人の倒れる音を目当として靄の中を進みます。
「捕《と》った!」
「小癪《こしゃく》な!」
 そこで喧々濛々《けんけんもうもう》として一場の大挌闘が起ったようであります。
「提灯を! 高張を!」
 同勢が叫びました。提灯と高張とは一度にそこへ集められました。その光で、あたりの光景が紅《べに》を流したように明るくなりました。そこに一箇《ひとり》の囚徒が阿修羅《あしゅら》のように荒《あば》れています。
 その荒れている囚徒というのはすなわち、宇津木兵馬と室を同じうした、かの奇異なる武士でありました。仮りにその名を南条と呼ばれていた武士でありました。
 南条は左の小脇にまだ病体の宇津木兵馬を抱えながら、右の手と足とを縦横に働かせて、組みついて来る同心や手先や非人を取って投げ、蹴散らして、阿修羅のように戦っているのであります。
 南条は外まわりの総高塀《そうたかべい》を背にして、寄り来る人々を手玉に取りながら、一歩一歩と高塀の方へ押着けられて行くのであります。いや押着けられて行くのではない、自分からジリジリとさがって行くようであります。
 いよいよ南条はその塀際《へいぎわ》までさがった時に、手早く塀の一端へ
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