したものと見えます。
 それらを最初にして、いろいろの説が出ました。御岳《みたけ》の奥、金峰山がよかろうというものもありました。或いは天目山を推薦するものもありました。少し飛び離れて駒ケ岳を指定するものもありました。
 その山々の名が呼ばれるに従って、いちいちその山の地勢だの、その山から起った伝説だの、そんなことが青少年の口から口へ泡を飛ばして語り合われるから、なかなか山の相場がきまりません。
 そのうちに、流鏑馬《やぶさめ》をやろうじゃないかという説も出ました。この説がかなり有力な説になっていきそうでありました。八幡宮で行われる流鏑馬が久しく廃《すた》れているから、それを起そうじゃないかという説は、これらの子弟の説としては根拠もあり理由もある説なのであります。
 また一方においては、我々でお能の催しでもしようではないかという温雅な説も出て来ました。それは大した勢力はなかったけれど一部のうちには、なかなか熱心な面付《かおつき》をしている者がないではありません。
 議論百出で、容易になんらの決定を見ませんでしたけれども、大体において、近いうち徽典館《きてんかん》の青少年らしい催しをして、大いに元気を揚げようじゃないか、ということに一致したのであります。それで今宵《こよい》出て来たいろいろの議論を参考として、次回の集まりまでに成案を立てるというだけはここできまりました。
 それから各自になるべくその主張するところに多くの賛成者を求めようとして、雑談の間に遊説《ゆうぜい》を試みているのもありました。それで夜の更けると共に、席はいよいよ興が乗ってゆくばかりです。
 この連中が解散を告げて徽典館の門を出た時分に、黒闇《くらやみ》の夜に例の霧のような靄《もや》がいっぱいに拡がっていました。後なる人は前の人の影をさえ見ることができません。前の人はまた後の人の名を呼んで門の前から三々五々、その志す家路に帰ろうとする時に、はじめてこの青少年たちに警戒の心が起りました。
 もう夜が更けている。暗い上に靄《もや》がかかっている。こういう晩に門外へ出ると、そぞろにこのごろの世間の噂の中の人とならないわけにはゆきません。
 彼等は言い合せたように、三人五人かたまって行きました。空身《からみ》であるのもあったけれども、竹刀《しない》と道具とを荷《にな》っているのもありました。お能をやりたいと言
前へ 次へ
全95ページ中55ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング