った少年たちのうちには特に得意の美音で、謡《うたい》をうたい出したのもありました。ましてや間近き鈴鹿山、ふりさけ見れば伊勢の海……なんぞと口吟《くちずさ》んだ時は、いかにも好い気持のようでありました。
どこかで太鼓の音がしています。それは近在の若い者たちが囃《はやし》の稽古をしているものらしい。大胴《おおどう》を入れる音と、笛を合せるのと、シャギリの音までも手に取るように響いて来たものであります。
「あの連中は根気はいいな、寒稽古といって夜徹《よどお》しやっていることがある。太鼓を叩いて笛を吹いて、馬鹿面《ばかめん》を被って踊ることでさえも、あの通りの根気がいる、それで、十年二十年と苦しんでもなかなか上手にはなれぬそうじゃ、況《いわ》んや我々の武芸学問においてをや」
囃の稽古を聞いても、こんなことを言い出すものがありました。
「一生苦しんでも出来ぬ奴は出来ん……と言って一心を籠《こ》めて精を出せば僅かの間にも上達する。拙者はこのごろ、ふと或る人の話を聞いた、歳は僅かに十七、我々とそう違わぬけれど、この甲府城の内外には及ぶものはなかろうとの剣術の達者があるという話を聞いた」
彼等少年軍の多くは足駄を穿《は》いておりました。凍《い》てついた大地をその足駄穿きで、カランコロンと蹴りながら歩いていました。
「そんな人がどこにいる」
前へ進んだのが後ろを振返りました。振返ったけれど、やはりおたがいの姿は見えないのです。
「この甲府にいるにはいる」
「ナニ、左様な人が甲府にいると? それならば教えを受けたいものだ、ぜひ」
やはり前へ進んでいた剣術の道具を荷ったのが踏み止まりました。
「甲府にいるにはいるけれど、居所が変っているから、お紹介《ひきあわせ》をするわけにはゆかんのじゃ」
「居所が変っていると? およそこの甲府の附近であったなら、どこでも苦しくない、行って教えを受けようじゃないか」
「それは我々には行けないところ、先方もまた我々に来られないところだから仕方がない」
「そのようなところがあろうはずがない」
「畢竟《つまり》、この甲府の牢屋の中にいるのだから我々には会えん、また先方も出て来られんのだ」
「甲府の牢屋の中に、まだ少年でそしてそれほどの剣道の達者がいると? いったいそれは何という者で、何の罪で牢獄に繋《つな》がれたのじゃ」
「それは宇津木兵馬といって、
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