さいせん》を紙に包んで、お賽銭箱の中へ投げ込みました。
「君ちゃん」
頭巾を取らない方の娘が呼びますと、
「はい」
お君はやはり恭しく返事をして、頭巾を取らない娘の方へ寄って来ました。
「わたしはここに待っているから、お前だけあちらへ行ってお御籤《みくじ》をいただいて来ておくれ」
頭巾を取らない娘が言いました。
「承知しました、ではお嬢様、暫らくこれにお待ち下さいませ」
「あの、お君や、もし年を聞いたら十九で、午年《うまどし》の男と言うように」
「はい」
「家を出てから今日で七日目になるということや、大切な宝を持って出たということも、聞かれたら答えてもよいけれど、あまり細かくは言わないように」
「はい、よろしうございます」
「それから、わたしの家の名前だの、幸内の名前だの、わたしの名前など、尋ねられても決して言わぬように」
「畏《かしこ》まりました」
お君は頭巾を取らない娘と、これだけの問答をして、一人だけ履物《はきもの》を脱ぎ揃えてお宮の上へあがりました。
ほどなく、お君は一枚の紙を手に持ってお宮の中から出て来ました。
「お嬢様、お御籤《みくじ》をいただいて参りました」
水屋のところに立って待っていた頭巾を取らない方の娘――いちいち頭巾を取らない方の娘とことわらなくても、それはお銀様と言ってしまった方がよいのです。お君の手に持っていたお御籤の紙がお銀様の手に渡されると、お銀様は受取って読みました。お銀様は紫の女頭巾はほとんど眼ばかりしか出さないように深々と被《かぶ》っていました。その眼をじっとお銀様がお御籤の紙上に注《そそ》いで黙読しているのを、お君は傍から覗いていました。お君にはその文字は読むことができないのであります。
「お嬢様、お御籤の表《おもて》は、吉でございますか、凶でございますか」
「この通り八十五番の大吉と出ていますわいな」
「大吉、それは結構でございます、この八幡様のお御籤が大吉と出ますようならば、もう占めたものでございますね」
「まあ、お聞き、大吉は凶に帰るということもあるから、一通り読んでみなくては」
お銀様は小さい声で読みました。
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|望用何愁[#レ]晩《ぼうようなんぞおそきをうれへん》
|求[#レ]名漸得[#レ]寧《なをもとめてやうやくやすきをう》
|雲梯終有[#レ]望《うんていつひにのぞみあり》
|帰路入[#二]蓬瀛[#一]《きろほうえいにいる》
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「君ちゃん」
お銀様はお君を呼ぶのに君ちゃんと言ったり、お君と言ったり、またお君さんと言ったり、いろいろであります。
「はい」
「この文句がわかって?」
「いいえ」
「これだけでは、わたしにもよくわからないから、この下に仮名で書いてあるのを読んで見ましょう、|望用何愁[#レ]晩《ぼうようなんぞおそきをうれへん》という文章の下には『のぞみ事のかなふ事のおそきをうれへず、こころながくじせつをまつべしとなり』と書いてあります」
「はい」
「それから|求[#レ]名漸得[#レ]寧《なをもとめてやうやくやすきをう》という文章の下には『やうやくとはしだいにといふ事也、ほまれのなをもとめ、しだいしだいに名がたかうなり、心安くおもふやうになるべしとなり』と書いてあります」
「まあ、しだいしだいに……」
お君はなんだか充分に呑込めないような面をしました。
「その次に、|雲梯終有[#レ]望《うんていつひにのぞみあり》とは、大きなのぞみごとも、すでにそのたよりを得たということそうな、|帰路入[#二]蓬瀛[#一]《きろほうえいにいる》ということは望みが叶《かな》って帰りには蓬瀛《ほうえい》といって仙人の住むめでたい国へ行くことそうな」
「なんにしても結構なお御籤《みくじ》のようでございます」
「けれどもお君や、心ながくとあったり、しだいしだいとあってみれば、これは急のことではないらしい」
「左様でございますか」
「わたしは急であって欲しい、一日も一刻も早くその望みが叶えて欲しい」
「わたしもそのように思いまする」
「気長く待っていられることと、居ても立っても待ってはいられないことがあるのを、神様は御存じないかしら」
「そんなことはございません」
「でも、このことの晩きを愁えずの、心長く時節を待ての、しだいしだいに望みが叶うのと、そんなことが今のわたしに堪えられようか、わたしはこのお御籤が怨《うら》めしい」
お銀様はどうしたのか、急に眼の色が変って、いきなりそのお御籤の紙を竪《たて》に二つにピリーと裂いてしまいました。
「何をなさいます、お嬢様」
お君が、周章《あわて》てそれを押えようとしたのは遅く、二つに引き裂いたお御籤の紙を、お銀様はクルクルと丸めて、洗水盤《みたらし》の中へ投げこんでしまいました。
「まあ、勿体《もったい》ないことを」
と言って、お君は怨めしそうに、いま投げ込まれたお御籤の紙を見つめていますと、
「お君や、帰りましょう、もうどうなってもわたしは知らない」
お銀様はお君の手を取って引き立てるようにし、自分が先へ立ってお宮の前の鋪石《しきいし》を歩きました。お銀様の挙動には、いつでもこんな気むずかしいことがあります。夕立の空のように急に御機嫌が変って、人に物をやってしまったり、また自分の物を惜気《おしげ》もなくこわしてしまったりします。お君はよくその呼吸を心得ているけれども、この時はあまりお嬢様の我儘《わがまま》が過ぎると思いました。我儘というだけでは済まない、これは罰《ばち》の当ったような仕業《しわざ》と思わないわけにはゆきませんでした。大神宮のお膝元で育ったお君には、神様を粗末にすることは罰当りという観念が強いのであります。
「お嬢様、ナゼあんなことをなさいます、せっかくのお御籤を……罰が当ります」
「何だか、わたしは知らない」
お銀様はお君を引き立てて、お宮の外へ出てしまいました。
「大吉は凶に帰る」
この時、茶所で、米友が昼寝をしていたのはどうも仕方がありません。お銀様は先に立って、
「お城を見て行こう、お城の方へ廻って見物して帰ることにしようわいな、早く」
「お嬢様、今日はこれだけでお帰りなさいませ」
「いいえ、お城を見て行きましょう」
「お城の方へおいであそばすと暇がかかって、お家で御心配になりますから」
「そんなことはかまわない、お城の方へ廻ってみたい、お前いやなら一人でお帰り」
「それではお伴《とも》を致しましょう」
お君はやむことを得ずして、賑かな方へとお銀様に引かれて行くのでありました。その間にお君は紫縮緬の女頭巾を被り直しました。お銀様は、いつもよりは早い足どりでお城の大手の方へ、大手の方へとめざして歩いて行きましたが、どうもお君は、それが少しずつ物狂わしいように思われて、不安の念に駆《か》られないわけにはゆきません。
甲府の城は平城《ひらじろ》ではあるけれど、濠《ほり》も深く、櫓《やぐら》も高く、そうして松の間から櫓と塀の白壁が見え、その後ろには遥かに高山大岳が聳《そび》えている。濠を廻って二人の若い女は大手の門の前へ立ちました。
ここへ来ると、お天守台も御櫓も前に見えなかったのが、よく見えます。
お城の大手の濠の前に立ってお銀様は、
「君ちゃん、わたしは、どうも幸内がこのお城の中にいるようにばかり思われてならない」
と言いました。
「左様でございますか」
と言って、お君も同じくお城の方を見ていました。
「幸内は、お父様の大切なあの刀を、あたしから借りて、この御城内のどなたかへ見せに来たものに違いない、この御城内のお方でなければ、有野村の近所で、あの刀を見たいというような人があるはずはないのだから」
「それもそうでございます、御城内のどなた様へおいでなさいましたか、それがわかりさえしますれば……」
とお君の返事から、お銀様は暫く考えて、
「あの、お君や」
と少し改まったように言いました。
「はい」
「お前は、この御城内に知人《しりびと》がおありかえ」
「いいえ」
お君は、どうして私風情《わたしふぜい》が、御城内のお方になんぞと、首を横に振って眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りました。
「おありだろう」
と言ってお銀様は、意味ありげにお君の面を見ました。
「いいえ、わたくしなんぞが」
とお君は言葉に力を入れて言いわけをしましたけれど、お銀様はそれを肯《き》かないで、
「お前はこの御城内にお親近《ちかづき》の方があるはずなのよ、お前は知らないと言うけれども、わたしはちゃんと知っている」
「お嬢様、どうしてそんなことがございましょう、わたしは他国者《よそもの》でございますから」
「けれどもお前、よく考えてごらん」
「どんなに考えましても」
「そう、お前、知ってるじゃないか」
「いいえ」
「まだわからないの」
「どうしてもわかりません」
「そんなら、わたしが言って聞かせる、それいつぞや、お馬を調べにわたしの屋敷へお見えになった、あの……」
「あ、御支配の駒井能登守様でございましたか」
「そうそう、あのお若い綺麗《きれい》な御支配の殿様のことよ」
「左様でございましたか、それならば、わたしはよく存じておりまする」
「それごらん、知っているくせに」
「それでもお嬢様、あの殿様を、わたし風情《ふぜい》が知っていると申し上げては恐れ多うございますね」
「いいえ、あの殿様はお前を知っている、お前はあの殿様に御贔屓《ごひいき》になっているくせに」
「御贔屓なんぞとお嬢様」
「いいえ、そうではありません、あの殿様からお前に、あんな結構な下され物があったのは、あれは殿様がお前を好いているからなのよ、わたしはそう思っている」
「お嬢様、飛んでもないことでございます、あれはムクの働きなのでございますよ、ムクが殿様のお馬の危ないところを助けたから、ムクへのお礼心で、それで、わたしの方へ、あんな結構な下され物があったのでございますよ」
「そればかりではありません、殿様がお帰りの時に、わたしはじっと見ていました、殿様は幾度も幾度もお前の姿を振返っておいでになりました、お前はそれを知らなかったであろうけれど、わたしはちゃんと見ていました、お前はあの殿様に思われているのに違いない、いいえ、わたしの見た眼に違いはありません」
お君は、お銀様からこの言葉を聞いた刹那《せつな》に、ポーッと面《かお》が赤くなりました。何ということはないが、胸に春風が吹いて、心の波が漂《ただよ》うような嬉しさでいっぱいになりました。けれど別に、お銀様の言葉には針がある、お君はそれを冷たく思いました。
「お嬢様、そんなことをおっしゃって、わたしをお嬲《なぶ》りなさいます」
「いいえ」
お銀様は、冷たい権《けん》のある言葉で首を横に振ったまま、お君の方を見返りもしませんでした。
「お嬢様、もうお帰りになっては如何《いかが》でございます」
「いいえ」
お銀様は、お城の方ばかりを見ていました。お君もせんかたなしにお城の方を見ていると、
「お君や、お前、あの殿様のところへお訪ねしてみる気はないかえ」
「どう致しまして、わたしなどが……」
「そうではありませぬ、お前があの駒井様をお訪ねすれば、駒井様は、喜んで会って下さるに違いない」
「どうしてそのようなことが……」
「ほかの人では、滅多にお会いになるまいけれど、お前が訪ねて行けば、あの殿様はきっと喜んでお会いなさる」
「お嬢様、そのようなお話は、もう御免を蒙《こうむ》りとうございます、お行列でもお通りになるといけませぬから、あちらの方へ参りましょう」
「まあ、お待ち、お君、お前はそんなに帰ることばかり急《せ》かないで、わたしの言うことをよく聞いておいで」
「はい」
「わたしは、お前に頼みたいことがある」
お銀様の言葉は、いよいよ権高くなってしまいました。
「お嬢様、今更、そんなに改まって」
「お前に頼みたいということは、いま言った通りお前はこれから、あの御支配の駒井能登守様のお邸まで行って来ておくれ、わたしはここで待っているから」
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