押隠すように入れてしまいました。そこへ入って来たのは神尾主膳でありました。
 主膳は片手に長い箱を抱えて、
「竜之助殿、貴殿に見せたい品がある、それでワザワザやって来た」
「それはそれは」
 主膳は長い箱を目の前へ取り直して、
「いつぞや噂をした伯耆の安綱の刀が手に入った」
「ははあ、安綱がお手に入ったか、それは珍重《ちんちょう》」
 主膳が包みを解いて箱の中から出した袋入りの白鞘は、前日試し物のあった日から、幸内と共に行方不明になった馬大尽の家に伝わる宝刀であります。
 しばらくして神尾主膳は、燈下でその安綱の鞘を払って竜之助の前に突き出して、
「二尺四寸、大湾《おおのた》れで錵《にえ》と匂いの奥床《おくゆか》しいこと、とうてい言語には述べ尽されぬ」
と言いました。
「篤《とく》と拝見したいものだが、見ることができぬ」
と言って竜之助は笑いました。
「ともかくも手に取って見給え」
 主膳はその刀を持ち添えるようにして、竜之助に手渡ししました。
「なるほど」
 竜之助は伯耆の安綱の刀を手に取って、持ち試みていましたが、
「安綱といえば古刀中の古刀、誰もその位を争うものはないのだが、さて実力はどれほどのものか知らん」
と言って嘯《うそぶ》くように見えました。
「竜之助殿、貴殿ひとつ試してみる気はないか」
「この安綱を?」
「左様」
 安綱を試してみろと言われて、竜之助は首を横に振りました。
「いかに名刀なりとて、千年もたっては隠居同様、ただ名物として奉って置くが無事であろう」
「たとえ千年二千年たとうが、精が脱《ぬ》けるようでは名刀の値打はない、この肌を見給え、この地鉄《じがね》を見給え、昨日|湯加減《ゆかげん》をしたような若やかさ」
「拙者には名刀といわず、無名刀といわず、手に合うたものがよろしい」
「それはそうかもしれぬ、しかし、安綱ほどの刀を試して、千年からの極《きわ》めを破るも面白いではないか。この刀をもって物を斬った話、古くは源頼光《みなもとのらいこう》の童子切と、近代では長曾我部元親《ちょうそかべもとちか》が何とやらしたという話、そのほかは畏《おそ》れかしこんで神棚へ祀るほかには能事がない。事実、切れ味はどんなものか拙者も知らぬ、世間の奴も知らぬ」
 神尾主膳は机竜之助をして、伯耆の安綱と称せらるるこの名刀を試させん底意《そこい》があって来たものと見えます。
「それはそうであろう、伯耆の安綱ともいわれる刀で犬猫も斬れまいし、滅多に土壇《どだん》や巻藁《まきわら》をやっても物笑い、それこそ宝として飾って置くが無事だわい」
 竜之助は寧《むし》ろ安綱を冷笑するような言葉つきでありました。
「折れても承知、その刀の真の切れ味が知りたい」
と神尾は言いました。
「折れて承知ならば、一番斬ってみようか」
 竜之助はこう言いました。
「頼む」
 神尾は透《すか》さずこう言いました。
 竜之助は打返して、その刀を振り試みていました。
「よし、試してみよう」
 竜之助はやはり巻藁か土壇を切るように容易《たやす》く請合《うけあ》ってしまいました。
「それでは、机氏」
と言って、主膳は伯耆の安綱を竜之助に預けて帰ろうとします。
「もう、お帰りか」
「このごろは甲府の市中が物騒でな、我々とても油断しては歩けぬ」
「物騒とは?」
「辻斬が流行《はや》るのじゃ」
「辻斬が?」
 竜之助はこの時、苦笑いをしました。主膳は刀を差しながら、
「昨夜も、小林と申す剣道の師範役の高弟が斬られたのじゃ、斬った奴は何者だともまだわからぬ、奉行の手でもわからぬし、城内の者にも心当りがない、しかし斬り手は非常な腕だ、それで甲府の上下、身の毛を慄立《よだ》てているが、困ったものじゃ」
「うむ」
「もし貴殿の眼でも見えたなら、こういう時には、その曲者《くせもの》の眼に物見せてやろうものを、あたら英雄も目無鳥《めなしどり》では悲しいことじゃのう」
「目が見えたら辻斬をして歩く方へ廻るかも知れぬ」
「ははは、そうありそうなことじゃ」
 神尾主膳はなにげなく笑いましたが、この時はじめて気のついたように、
「竜之助殿、あの長持の中の物、あれを貴殿にお任せ申そう、安綱の切れ味、ことによったら、あれで試して御覧あれ」
「よろしい」
 主膳は別に長持へ近く寄ってそれを改めてみようともしませんでした。竜之助もまた長持から怪しい者が出て来て、自分の膝へ縋《すが》りついたということを語るでもありませんでした。その長持から出た怪しの者も、この時ははやジタバタするではありません。
 こうして神尾主膳はこの古屋敷を出て行きました。甲府から半里、駕籠にも乗物にも乗らずに来て、玄関には草履取と提灯持兼帯の男が一人待っているばかりでした。
 躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》の古城は武田家の居城《きょじょう》のあったところ。三面には岡があるけれど、城は平城《ひらじろ》、門の跡や、廓《くるわ》のあと、富士見御殿のあった台の下には大きな石がある。そのあたりは松の木や荊《いばら》が生い茂っている。神尾主膳が本通りを甲府へ帰りついた時分に、大泉寺の鐘が九ツを打ちました。その時分にこの古城のところを机竜之助が歩いていました。やはり宗十郎頭巾を冠《かぶ》って杖を持って刀を差している。その行先はいずれであるか知らないけれども、向って行くところは、やはり甲府の方面であります。

         八

 その晩、甲府八幡宮の茶所で大欠伸《おおあくび》をしているのは宇治山田の米友であります。
 土間には炭火がカンカンと熾《おこ》っている。接待の大茶釜が湯気を吹いて盛んに沸いている。そこで米友は、こちらの畳の上に胡坐《あぐら》をかいて遠慮なく大欠伸をしています。
 下には浅黄色《あさぎいろ》の短い着物を着て、上へ白丁《はくちょう》を引っかけて、大欠伸をした米友は、またきょとん[#「きょとん」に傍点]として大茶釜の光るのと、それから立ちのぼる湯気と、カンカン熾《おこ》っている炭火とをながめていましたが、
「どっこいしょ、燈籠《とうろう》のあかりを見て来なくちゃならねえ」
と言ってそこを立ちました。立つ時に米友は億劫《おっくう》そうに烏帽子《えぼし》を冠《かぶ》って、その紐を横っちょの方で結んで、銅の油差を片手に、低い床几《しょうぎ》を片手に持って、草履をつっかけて外へ出ましたのです。
「なんだか知らねえが、今夜はこの八幡様へでえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]が来るそうだから、それで燈火《あかり》を消しちゃあならねえのだ。でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]というのは、どんな奴だか、これも俺《おい》らは知らねえが、恐ろしくでかい[#「でかい」に傍点]奴だという話だ。そのでえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]が、この八幡へ喧嘩をしかけに来るから、それで八幡様の前を明るくしておけという神主様の仰せだ。だから俺らはその仰せ通り今夜は不寝番《ねずのばん》で、お燈明へ油を差して歩くんだ」
 油差と床几を手に持って外へ出た米友が、こんなことを言いました。そうして社の鳥居のところから始めて幾つもある木の燈籠や、石の燈籠をいちいち見て歩いて、消えそうなやつへは油を差して歩きました。歩くといっても、やはり米友は跛足《びっこ》です。それに背が低いからいちいち床几を下へ置いてその上へのって、それから油を差して歩きます。
 境内を残る隈《くま》なく見廻って、油を差すべきものには差し終ってから米友は、また茶所へ帰って来ました。そうして熱いお茶を一杯いれて呑んでから、烏帽子《えぼし》を取って叩きつけるように抛《ほう》り出して、また前のところへ胡坐《あぐら》をかいて、前のようにぼんやりとして、接待の茶釜の光るのと炭火のカンカンしているのをながめていましたが、程経てまた大欠伸《おおあくび》をはじめてしまいました。
「眠ってえな」
と言って眼を擦《こす》りながら、
「はははは、笑あせやがら」
 なんと思ったか米友はカラカラと笑い出して、
「でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]なんというものは見たことも聞いたこともねえんだ、でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]が来たからったっても、なにもそんなに驚くことはあるめえじゃねえか」
と言いました。何か米友はそのでえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]について腑《ふ》に落ちないことがあるようです。
「そのでえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]が喧嘩に来るから、それを怖がっているような八幡様じゃあ、八幡様の有難味が薄いや、でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]が来たら来たように、俺らがなんとかひとつ掛合ってみてやろうじゃねえか」
 米友はしきりにでえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]のことを言って当《あて》のない臂《ひじ》を張ってみましたが、それも暫くすると、眠気に負けたらしく、羽目《はめ》へ寄りかかってコクリコクリと漕《こ》ぎ出してしまいました。
「あ、眠っちゃいけねえんだ」
 茶釜を溢《あふ》れた沸湯《にえゆ》が、炭火の上に落ちてチューと言った音で米友は眼を醒《さ》ましましたが、すぐにまた漕ぎはじめてしまいました。
 やや暫く居眠りをしていた米友が、
「あ、また眠っちまった」
と言って二度目に眼をさました時は、何か気にかかるようなものがあるような様子です。
「はてな、今、足音がした、たしかにここで足音がしたに違えねえんだ」
と言って、米友は眠い目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って鳥居の方から外を見ました。
「誰だい、誰か来たのかい」
と咎立《とがめだ》てをしたけれど、外は闇でよくわかりません。燈籠の火影《ほかげ》の届くところには何者も見えませんでしたけれど、感心なことに宇治山田の米友は、居眠りをしても、その足音を聞き洩らすような油断がありません。
「まさか、でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]じゃあるめえな」
と言って座右を顧みた時に、そこに六尺の手槍がありました。
「兄い、なかなか寒いじゃねえか」
 気軽に茶所へ入って来たのは、でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]でもなければ、八幡様の廻し者でもないようです。竹の笠を被って紺看板《こんかんばん》を着て、中身一尺七八寸ぐらいの脇差を一本差して、貧之徳利を一つ提げたお仲間体《ちゅうげんてい》の男でありました。
「うむ、寒い」
 米友は案外な面《かお》をして仲間体の男を見ますと、その仲間体の男は、心安立《こころやすだ》てにズカズカと火の傍へ寄って来て、
「兄い、済まねえがお茶を一杯振舞ってくんねえ」
と言いました。
「いくらでも飲みねえ」
 仲間体の男は貧之徳利を土間へ置いて、大土瓶から熱いお茶を注いで飲みました。お茶を飲むところを笠の下から見ると、この仲間体の男は、折助《おりすけ》にしては惜しいほどの人柄に見えました。
「どこへ行ったんだい、もう晩《おそ》いよ」
と米友は咎立《とがめだ》てをするような口ぶりであります。
「ナニ、部屋からの帰りなんだ」
と仲間体の男はなにげなき体《てい》で返事をして、お茶を飲んでしまうと懐中から叺《かます》を取り出して、炭火で火をつけて鉈豆《なたまめ》でスパスパとやり出しました。
「兄い、不寝番《ねずのばん》かい、御苦労だな」
と言いました。
「ははは、不寝番だよ、今夜はでえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]が来るというから、それで寝られねえんだよ」
「ははあ、なるほど」
と言って仲間体の男は頷《うなず》きました。
「でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]がこの八幡様へ喧嘩をしかけに来るんだそうだ、それで八幡様のお庭を明るくしておけと神主様の言いつけだ、だからこうして不寝番をして、時々燈籠へ油を差して歩くんだ」
 米友はワザワザ申しわけのように言っていると、
「なるほど、それは御苦労さまだ、油を差すのはいいが、油を売っちゃいけねえよ」
「ばかにしてやがら、油なんぞを売るものか」
「それでも今、コクリコクリとやって
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