でございます、岡村氏が松蔭御門《まつかげごもん》の跡で袈裟《けさ》に斬られて死んでおりまする」
「ナニ、岡村が?……」
小林文吾も仰天《ぎょうてん》しないわけにはゆきません。押取刀《おっとりがたな》でその場へ駈けつけて見ると、岡村は左の肩から右の肋《あばら》を斜めに断たれて、二つになって無残の最期《さいご》。
小林文吾はあまりのことに、暫らく口も利けないくらいでありました。
七
その晩、一間のうちでしきりに刀を拭《ぬぐ》うているのは机竜之助であります。
竜之助は盲目《めくら》になっているけれども、その一間には丸い朱塗の行燈《あんどん》が立てられて、燈火《あかり》がぼんやりと光っています。
その燈火の下で竜之助は、秋の水の流れるような刀を拭うておりました。
刀は幾本も幾本もあって、白鞘《しらさや》のものや拵《こしら》えのついたものが、竜之助の左の側に積み重ねるようにしてあるのを、右へ取っては拭いをかけて置き換えているようです。
ある時はまたそれを行燈の下で二三度振ってみました。ある時はまたその刃切れを調べるようにしていました。
刀は、いずれも二尺以上のものばかりです。こうして四本かぞえて五本目に抜いた刀は、二尺三寸余りあるように見えます。
「ははあ、これだな、これが手柄山正繁《てがらやままさしげ》だ」
と呟《つぶや》いて竜之助は、それを自分の右の頬に当て、刃を鬢《びん》の毛に触れるようにしていました。
盲目《めくら》であった竜之助には、その刀の肌を見ることができません。錵《にえ》も匂いもそれと見て取ることのできるはずがございません。けれども、
「これは斬れそうだ」
と言いました。刃を上にして膝へ載せてから研石《みがきいし》を取って竜之助は、静かにその刃の上を斜めに摩《こす》りはじめました。竜之助は、いまこの刀の寝刃《ねたば》を合せはじめたものであります。刀の寝刃を合せるには、きっと近いうちにその刀の実用が予期される。明日は人を斬るべき今宵という時に、刀の寝刃が合せられるはずのものであります。
それですから、刀の寝刃を合せる時には大概の勇士でも手が震うものであります、心が戦《おのの》くものでありました。それは怯《おく》れたわけではないけれども、明日の決心を思う時は、血肉がじっとしてはおられないのであります。それはそうあるべきはずです。しかるにこの人は平気で寝刃を合せています。蒼白い面《かお》の色、例の切れの長い眼の縁《ふち》には、十津川で受けた煙硝のあとがこころもち残っているけれども、伏目《ふしめ》になっている時には、それが盲目とは思われないほどに昔の面影《おもかげ》を伝えていました。その面の色はいつ見ても沈んでいる。
音無しの構えに取った時に見る、真珠を水の底に沈めたような眼の光こそ今は見ることができませんけれど、その代りに蒼白い面の表一面に漲《みなぎ》るような沈痛の色、それは白日の下で見るよりは燈火の影で見た時に、蒼涼《そうりょう》として人の毛骨《もうこつ》を寒からしむるものがあります。
今、ようやく寝刃《ねたば》を合せ終ったのは二尺三寸、手柄山正繁の一刀でありました。この刀を斬れるようにして、それから竜之助は何をするつもりであるか知れないけれど、いま竜之助が座を占めて刀調べをしているこの一間、そもそもこの屋敷、それは説明しておく必要がありましょう。
この屋敷は甲府を離るること半里、躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》の古城跡にある荒れた屋敷であります。そうしてこの屋敷の持主は神尾主膳であって、主膳は前の持主が住み荒らしたのを買い取って、下屋敷のようにしていました。けれども主膳自らはここに来ることが甚だ稀《まれ》であって番人に任せておいたから、いよいよ屋敷は荒れていました。それをこの頃になって、主とも客ともつかぬ者が一人出来ました。それがすなわちこの机竜之助であります。
神尾主膳が何故に机竜之助をここへ置いたかということは、まだ疑問でありましたけれど、ここへ置かれた机竜之助は、囚人《めしうど》でも監禁の相《すがた》でもありません。
竜之助をここへ移したものが神尾主膳でありとすれば、今ここへ刀をあてがっておくその人も神尾主膳でなければならぬ。
神尾主膳の名を騙《かた》って奈良田の奥へ甲州金を取りに行った偽物《にせもの》を殺して、その駕籠《かご》で神尾の邸へ乗り込んだはずの竜之助を、神尾主膳が保護するような形式を取っていることが、不思議であるといえば不思議であります。
竜之助がこの古屋敷に来てから、もうかなりの時がたちましたけれど、まだ一回も外へ出たのを見たものがありません。幾間も幾間もある屋敷の、いずれの間に住んでいるのであるかさえもよくわかりませんでした。しかし、夜になると、屋敷の番人をしている男が食物を運ぶのと燈火《あかり》をつけに来ることによって、そこに人がいることがわかりました。
また庭の幾所に巻藁《まきわら》が両断されて転がっていることによって、この家に住む人が試し物をするのだということが想像できるのであります。
ここに置かれた机竜之助が刀調べをしていることも、その調べた刀によって巻藁の類を試していることも、ひまつぶしとしてはそうありそうなことであります。寝刃《ねたば》を合せていることも、巻藁を切るためであったかと思えば、別段に凄いことではありません。
そこで寝刃を合せ了《おわ》った竜之助が、手柄山正繁の一刀を取り直した時に、広い座敷、およそ二十畳も敷けるこの一間の片隅にあった古びた長持の蓋《ふた》がガタといって動きました。
その音で竜之助は、刀を持ったまま長持の方を向きました。竜之助が長持の方を向いた時に、長持の蓋がまた続けざまにガタガタと二つばかり動きました。三つ目には、もっと烈しい音で、下から力を極めて何か持ち上げるような音で長持が動きました。
屹《きっ》とそれを見つめていた竜之助は、
「騒ぐな、騒いだとて時が来ねば許しはしない」
と長持の蓋に向ってこう言いました。その様、何か心得ているらしく見えます。しかし動きはじめた長持は、竜之助のこの声を聞いて静まることがなくて、かえって烈しい音を続けざまに中から立てて、それに相答うるような有様でありましたが、敢《あえ》て一言も人の言《こと》の葉《は》としてはその中から洩れて来るのではありません。
「おとなしうしておれ、騒ぐとかえってためにならぬ」
竜之助は叱るように、また教えるように、或いは嚇《おど》すようにこう言いました。ところが、その声を聞くと、いや増しに長持が動きました。動くというよりは寧《むし》ろ、長持そのものが荒《あば》れ出したように見えました。もしこの長持の中に人があるならば、こんなに荒れ出す先に、許せとか助けよとか、哀れみを請うべきはずであるのに、そうでなくて、ただただ必死に荒れてのみいるのでありました。その荒れる烈しさをこちらから想像すれば、それはかなり力のある男のする業であると、誰もそう思わないわけにはゆきません。
口では叱るように、教えるように、または嚇すように騒ぐなと言ったけれど、その態度は冷然たるもので、いよいよ動き荒れ出した長持の蓋も箱も中から裂けてしまいそうになってきた時も、竜之助は立とうとも動こうともしませんで、やはり冷然として、その刀を鞘に納めてしまいました。その途端に長持のいずれの部分かが、メリメリと裂けるような音がしたかと思うと、中からもがき出したのは一人の男。
それはちょうど、紺屋《こんや》の藍瓶《あいがめ》の中へ落ちた者が、あわてふためいて瓶から這《は》い上るような形であります。面《かお》も着物も真黒でありました。
古い長持であったから、それで錠前《じょうまえ》も刎切《はねき》れたものであろうけれど、それにしても中からそれを刎切るのは容易な力でありません。渾身《こんしん》の力を絞ってやっと蓋を跳上げて、箱の外へもがき出した一人の男は面も着物も、そっくりと紺屋の藍瓶へ漬けておいたように真黒くなっていました。そのもがき出す身ぶりによって見れば、両手を後ろへ廻して縛られた上に、両足をまた一つに絡《から》げてこの中へ投げ込まれていたものと見えます。
竜之助は今しも鞘へ納めた手柄山正繁の刀を膝元へ引きつけたままで、ただそちらの方を見て坐っているばかりでありました。この刀は白鞘《しらさや》の刀ではありません。それは神尾が差しても竜之助が差しても恥かしからぬほどの拵えのある刀でありました。その刀をこころもち居合に取って、行燈の方向を少し避けるようにしたのは、ここに引寄せて斬って捨てようとの心構えに見えました。
真黒になって手足を縛られた人間が、やっと立ち上った形は、大きな蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》が天上するような形であります。手足こそ縛られているけれども、いっこう猿轡《さるぐつわ》を箝《は》められた模様もないのに、口を利かないのはなぜだろう。なんとも言わないで、蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》の天上するような形をしてやっと長持をもがき出した黒い人影は、人魚の児が這い出したようにして畳の上をのたくって、竜之助の方へと寄って来るのであります。
のたりのたってその男は、ついに竜之助の膝のところまで来ると、その膝を枕にするようにして竜之助の面《かお》を打仰ぎました。
「叱《しっ》!」
竜之助は左の手でそれを払い退けると、その男は執念《しゅうね》く再び竜之助の膝にのたりつくのであります。
「うるさい」
竜之助は再びそれを払い退けました。払い退けられて男は三たび竜之助の膝にのたりつきました。その口を慌《あわただ》しく動かして、咽喉首《のどくび》が筬《おさ》のように上下するところを見れば、これは何か言わんとして言えないのでした。訴えんとして訴えられないものでありました。
突き放され、突き放され、またのたりつく有様は他目《よそめ》には滑稽《こっけい》でもあるけれども、その当人は名状し難い苦しみにもがいているのです。如何《いかん》せん机竜之助は、それを滑稽として見ようにも、また苦悶の極みとして見ようにも、どちらにしても見て取ることができない人でありました。
しかしながら、机竜之助の両眼が暗くて、その人の何者であるやを見て取ることができないにしても、たとえささやかながら行燈《あんどん》の火がある以上は、面《かお》も着物も真黒になってはいるけれど、見知った者には間違いなく、それは馬大尽の雇人の幸内であるということがわかるのであります。
これは馬大尽の家の幸内でありました。伯耆《ほうき》の安綱の刀を持って出て行方《ゆくえ》知れずになった幸内が、今ここにこんな目にあわされていることを誰が知ろう。幸内はそれを今、神か仏か知らないけれども居合せた机竜之助に向って訴えようとするものらしいが、どうしても口が利けないらしい。
「神尾殿が来てなんとかするまで、もとのところで窮命しておれよ」
竜之助は、やはり片手でさぐって、のたり廻る幸内の襟髪《えりがみ》を無造作《むぞうさ》に掴んで、部屋の隅へ突き飛ばしてしまいました。
幸内を振り飛ばした机竜之助は、やがて手柄山正繁の一刀を腰に差して立ち上りました。
振り飛ばされた幸内は、長持の隅のところへ投げ倒されたなりで、今度は動くことをしませんでした。そうしておいて竜之助は、懐中から宗十郎頭巾《そうじゅうろうずきん》を出して冠《かぶ》りました。頭巾を冠ってしまってから、座敷の隅をさぐるとそこに杖が立てかけてありました。その杖を手に取って、行燈の方へ静かに歩み寄って、その火を消そうとすると、廊下に人の足音がしました。それで竜之助は行燈を覗《のぞ》いたような形のままで、その足音に耳を傾けました。
足音は廊下を伝ってこの座敷へ来るのであります。
「机氏、机氏」
と言って竜之助を呼びました。
「おお、主膳殿か」
竜之助はそれを知って、燈火を吹き消すことをやめて、冠《かぶ》っていた頭巾を取って懐中へ
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