みつくようにして吠えています。
「まあ、あの犬が殿様に……失礼な」
お君は驚きました。ムクを呼んで叱らなければならないと思いました。
「お嬢様、ムクが殿様に失礼をするといけませんから呼んで参ります」
と断わって、あわててそこを駈け出して、
「ムクや、ムクや」
お君はやや遠くから呼びました。お君から呼ばれさえすれば、いくら遠くにいてもかえって来るムクがこの時は、いよいよ能登守の馬の足に絡みついて、遠くから見ていると馬と人とを襲うているように見えます。
それを馬上の能登守がもてあましているようでしたから、お君は安からぬことに思うて息を切って、馬場から牧場の方へと枯草の原を駈けて行きました。
そのうちに、駒井能登守はたまり兼ねて馬から下りてしまったようであります。或いはムクが烈しく襲いかかったために落馬をされたのではないかと、お君はいよいよ安からず思いました。
馬から下りた能登守が、馬の口を取っていると、その時にムクも温和《おとな》しくなってしまいました。そこへ息を切ってお君が馳せつけて来て、
「ムク、まあどうしたのです、お殿様へ御無礼を申し上げて」
お君は、せいせい言いながらムクを叱りました。駒井能登守は莞爾《かんじ》としてムクの頭を撫でながら、
「叱ってはいかぬ、こりゃ良い犬じゃ、この犬のおかげでわしは助かったのじゃ」
と言って駒井能登守は、一間ほど前のところの草の中を指さし、
「そこに古井戸がある、その古井戸へ、すんでのことに馬を乗りかけるところであった、それをこの犬が追いかけて来て留めてくれた、初めは狂犬かとも思うて、鞭《むち》で二つ三つ打ち据えたが、それでも退《ひ》かぬ故ようやく気がついた、この犬がいなければ、わしは馬もろともこの古井戸へ落ちて助からぬことであった、ああ危ないことであったわい」
と言って、能登守は汗を拭きました。
「まあ、左様でございましたか。ムクや、よくお殿様に危ないところをお教え申しました、お前はやっぱり良い犬でした」
お君は駈け寄ってムクの首を抱きました。その時、能登守はお君とムクとを見比べていましたが、
「この犬は、お前の犬か」
「はい、わたくしの犬でございます」
「お前はここの家の……」
「雇人でござりまする」
能登守は、お君とその犬との親身《しんみ》な有様をじっと見つめていました。伊太夫はじめ能登守のお伴《とも》の者がそこへ駈けつけたのはその後のことであります。
駒井能登守は有野村の馬大尽のところから帰り道に、
「一学」
と言って若党の名を馬の上から呼びました。
「はい」
「あの犬を大切にしていた娘を、そちは見たような女と思わぬか」
「はいはい、そのことでござりまする、私もそのように申し上げようかと存じておりましたところでござりまする」
「何と思うていた」
「遠慮なく申し上げてもよろしうござりましょうか」
「遠慮なく申してみるがよい」
「左様ならば申し上げてしまいまする、あの女の子は奥方様に生写しでござりまするな」
「そうか、拙者《わし》もそう思うたからそちに聞いてみた」
能登守は莞爾として一学を顧みました。
「左様でござりまする、奥方様より歳は二つ三つ若いようでござりまするが、あれで奥方様と同じお作りを致させますれば、全く以てわたくしたちまで見違えてしまうでござりましょう」
「その通りじゃ」
そうして馬を打たせて、御勅使川《みてしがわ》の岸を東へ歩ませて行きました。
「殿様」
「何だ」
「あの、奥方様はいつごろ、こちらへお見えになりまする」
「それはいつともわからん」
「御病気の御容態《ごようす》は、いかがでござりましょうか」
「別に変りはないようじゃ」
「一日も早くお迎え申したいと、家来共一同、そのことのお噂を申し上げない日とてはござりませぬ」
「年内はむずかしかろう、年を越えてもことによると……」
「来春になりますれば、ぜひお迎えに上りとう存じまする」
「あれもこっちへ来たいと言って、いつの手紙にもそのことを書いてあるが、あの身体では覚束《おぼつか》ない故に留めてある」
「殿様も御心配でございましょうけれど、奥方様もさだめてお淋しいことでございましょう、どうか早くお迎え申したいものでござります」
「一学」
「はい」
「あの栗毛を受取りに行く時、あの女にも何か物を遣《つか》わしたいものじゃ」
「左様でござりまする」
「あの犬のために怪我をせずに済んだのじゃ、犬と持主に心付けを忘れぬように」
「しかるべきものを調《ととの》えまするでござりましょう」
「その時に、一応あの女の身の上を聞いてみるがよい、もし邸へ来るような心があるならば、伊太夫へ話をして呼んでみてもよい」
「はい」
一学は主人が、あの女のことを親切に思うていることに気がつきました。
六
馬大尽の雇人の幸内は、三日目の日が暮れてしまってもついに屋敷へは帰りません。
伯耆の安綱と称せしかの名刀もまた、幸内と共にその行方を失ってしまいました。
この前後のこと、甲府の町うちにおりおり辻斬があります。
三日か四日の間を置いて、町の端《はず》れに無惨《むざん》にも人が斬られていました。その斬り方は鮮やかというよりも酷烈《こくれつ》なるものであります。
一刀の下《もと》に胴斬《どうぎ》りにされていたのもありました。袈裟《けさ》に両断されていたのもありました。首だけを刎《は》ね飛ばしたのもありました。ちょうど神尾主膳の家で刀のためしのあったその夜もまた、稲荷曲輪《いなりくるわ》の御煙硝蔵《ごえんしょうぐら》の裏に当るところで、一つの辻斬があったことが、その翌朝になってわかりました。
斬られたのは幸内ではありませんでした。ところの方角も幸内の帰って行ったのとは違いますし、ことに斬られた本人が近在の煙草屋でありましたから、直ぐに本人の家族へ沙汰があって、これらが駈けつけて泣きの涙です。
町奉行の役人と、前日神尾の家へ集まった師範役の小林文吾とその弟子どもも駈けつけました。
町奉行の検視の役人は、現場に立って面《かお》を見合せて腕を組んで、
「たしかに物取りの仕業《しわざ》ではない」
「勿論《もちろん》のこと。これでこの一月ばかりの間に四つの辻斬」
もう一人が、やっぱり浮かない面をして、現場を今更のように見廻すのであります。
「それがみんな同じ手」
と、もう一人が言いました。
「非常な斬り方である、これはどうも……」
と言って三人の役人が一度に小林師範役に眼を着けました。
彼等にはなんとも解釈がしきれないから、それで小林の意見を促《うなが》すような眼つきであります。
「これだけに斬る者は……」
と言って、小林も頭を捻《ひね》って思案に余るようでありました。
「刀が非常な大業物《おおわざもの》であるか、さもなければ、人が非常な斬り手である」
小林は今その屍骸の斬り口を検査して見て、舌を捲いているところでありました。この一カ月来、これで四度辻斬があったのに、そのうち三度まで小林は立会っていました。
先日神尾の屋敷で試し物があったのも、一つはこの辻斬があったから、それに刺戟されたものであります。
一人二人の間は話の種であったけれども、四人目となっては町の人の戦慄《せんりつ》であります。町の人の戦慄と共に、役向の責任でありました。そうしてこの小林文吾にとっては、まさに剣道の面目ということになりそうです。
「もし当地に住居《すまい》致す者にてこれだけの手腕《うで》のある人あらば、拙者に心当りのないはずはないが……しかしその見当がつかぬ。察するところ、他国の浪人がいずれにか隠れていて、夜な夜な狼藉《ろうぜき》を働くのではないかと思う」
「ともかくも、今夜より一層警戒を厳重に致さねばならぬ」
小林文吾は自宅へ帰っていろいろと考え込んでしまいました。
小林は小野派一刀流を本《もと》として田宮流の居合《いあい》、神道流の槍なども得意としている人であります。彼はこの斬り手がたしかに、城内にある勤番武士のうちの誰かであると見当をつけてしまっていました。城下及び領内にも腕の利《き》いた人がないことはない、百姓町人の間にさえ相当に出来る人を知っているけれども、それらの人にこんな荒っぽい芸当ができるものではない。その斬り方の酷烈なことを見ても、とうてい普通の人情を備えたものにはできない仕業《しわざ》である。さて城内の勤番武士の間にその人ありとすればそれは誰だろう。小林はその見当に思い惑《まど》うています。
城内の勤番のなかに覚えのある者で、一応小林と手を合せない者はないはずであります。それであるのに見当がつかない。思い惑うているそこへ、
「先生」
と言って現われたのは、先刻、辻斬の立会に連れて行った岡村という高弟でありました。
「おお岡村氏」
「先刻は失礼を致しました」
「いや先刻は大儀でござった」
「先生、それにしても腹が立ちまするな」
岡村は何か余憤があるらしく、
「先生、拙者の考えには、この辻斬はたしかに城内の勤番の武士のうちにあると、こう見当をつけましたが如何《いかが》でござりまする」
「それそれ、拙者もそう思っているが、その勤番のうちで、それでは誰と目星をつけ様がない、それで考えが行詰ってしまっている」
「左様、城内の侍ならば、先生と我々との間に大抵の品定めがきまるのでござりまする、それで拙者もいろいろと考えてみましたが、とうとう一つ考え当りました」
「それは誰じゃ」
「先生、意外な人でござりまするよ、それこそは」
「遠慮なく言って見給え」
「そんなら申してみましょう。しかし先生、城内で我々が、まだその腕前を海とも山とも見当のつけられないものがたった一人あるはずでございます、先生もひとつ、それをお考え下さいまし」
「左様な人は……今もつくづくとそれを考えて、考え抜いたけれど、左様な人は一人もないのじゃ」
「それがあるから不思議でございます」
「誰じゃ、言って見給え」
「それは先生、あの今度御新任になった御支配の駒井能登守でございます」
「ナニ、駒井能登守殿?」
小林もさすがにその突飛《とっぴ》な推察に驚かされたようです。しかし、そう言われてみると、城内でしかるべき人として、海のものとも山のものとも知れないのは新任の駒井能登守一人だけです。これを突飛として見れば突飛だが、注意を以て観察すればその人が、一廉《ひとかど》の注意人物でない限りはありません。
「しかし先生、これには寸分も証拠とてはござりませぬ、先生なればこそ、斯様《かよう》なことを申し上げるので、余人へは冗談《じょうだん》にも申されたことではござりませぬ。それを確かめるために、私は今夜からひとつ、忍びを実地に稽古してみとうござりまするが如何《いかが》でござりましょう、先生の御意見は」
「なるほど」
「今夜ということに限らず、これから一心にあの駒井能登守殿の挙動をいちいち探査してみとうござりまする、いかがなもので」
「なるほど」
「そうしていよいよ、これはという動きの取れぬところを押えたら、相手が相手だけに妙ではございませんか」
「うむ、面白い」
ここに至って小林師範役は膝を打ちました。岡村も喜んで、
「では先生も御賛成下さいますな」
「いかにも。やって見給え。しかし相手が相手だけに用心も一層じゃ」
その後、岡村は道場へはあまり姿を見せないようになりました。その当時暫らくは辻斬の噂がありませんでした。岡村はまだなんとも報告を齎《もたら》さなかったけれど、こうして岡村が警戒するために、辻斬もそれを憚《はばか》って当分遠慮をしているのではないかと、小林師範役は心の中で岡村を頼もしがって、そのうち何か面白い報告を齎すだろうと楽しみにしていました。
ところが、それから六日目の朝っぱら、小林師範役がまだ床を離れたばかりの時分に、あわただしく一人の門弟が、
「先生、先生、先生、大変でござりまする、大変」
小林はその慌《あわただ》しさに驚かされました。
「先生、先生、また辻斬がございました、また辻斬が……斬られたのは岡村氏
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