《おどか》されたものか、或いは他の斬られたのを見て、自分が斬られたと思ったのか。小林は脇差の鯉口《こいぐち》を切りながら、外の闇へ飛んで出ました。
「爺《とっ》さん、しっかりしなくちゃいけねえ」
 そのあとで米友が鍋焼饂飩の介抱《かいほう》に廻りました。
 鍋焼饂飩は、やっと回復したけれども、まだ生きた空はありません。
「いったい、こりゃどうしたんだい」
と言って尋ねてみましたけれど、その返事がいっこう纏《まと》まりがありません。ただ、鍋焼饂飩《なべやきうどん》をお客に喰わせていると、松の蔭から黒い人影が現われて、そのお客もひっくり返ったが自分も無暗《むやみ》にここへ逃げ込んだというだけの要領でありました。そのお客がどんな人であったか、またその物蔭から出た黒い人影が、どんな形であったか、そんなことはまるっきり要領を得ないから、米友は笑止《おかし》がって鍋焼饂飩に力をつけてやり、お茶を飲ませたり、壊《こわ》れた道具を片附けたりしてやりました。鍋焼饂飩は、まだ歯の根も合わないで、慄《ふる》えながら始末をしているところへ、
「ああ、危ねえ、危ねえ」
と言いながら、またもそこへ入って来たのは風
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