一人や二人じゃねえんだ……」
 小林はそれに附け加えて何か言おうとした時に、十日ほど前の晩に人が斬られたという松林の方で、
「鍋や――き、うどん」
 自慢の声が長く引いて聞えて来ました。
「来たな、鍋焼が来たぞ」
 米友はどうやらその鍋焼うどんを待ち構えているらしくあります。
「鍋や――き……」
 二度目に聞えた時に、鍋や――きだけで止まってしまいました。うど――ん、という声を続けるところで急に咽喉《のど》が塞《ふさが》ってしまったらしいから、せっかくの余韻《よいん》が圧殺《おしころ》されたような具合であります。それと同時にガチャンピシンドタンという大騒ぎ、丼《どんぶり》が飛ぶ、小鉢が躍る、箸が降る、汁とダシの洪水《おおみず》。屋台もろともにこの茶所へ転げ込んで、
「ウ――」
と唸ったのは鍋焼饂飩屋《なべやきうどんや》の老爺《おやじ》であります。
「どうした」
 小林文吾は、いま転げ込んだ鍋焼饂飩を引き起して、忙《せわ》しく尋ねました。
「そ、そ、そこで斬られた――」
 鍋焼饂飩は、股慄《こりつ》しながら、やっとそれだけ言いました。斬られたとは言うけれど、斬られている様子はない。単に脅
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