当りがない、しかし斬り手は非常な腕だ、それで甲府の上下、身の毛を慄立《よだ》てているが、困ったものじゃ」
「うむ」
「もし貴殿の眼でも見えたなら、こういう時には、その曲者《くせもの》の眼に物見せてやろうものを、あたら英雄も目無鳥《めなしどり》では悲しいことじゃのう」
「目が見えたら辻斬をして歩く方へ廻るかも知れぬ」
「ははは、そうありそうなことじゃ」
 神尾主膳はなにげなく笑いましたが、この時はじめて気のついたように、
「竜之助殿、あの長持の中の物、あれを貴殿にお任せ申そう、安綱の切れ味、ことによったら、あれで試して御覧あれ」
「よろしい」
 主膳は別に長持へ近く寄ってそれを改めてみようともしませんでした。竜之助もまた長持から怪しい者が出て来て、自分の膝へ縋《すが》りついたということを語るでもありませんでした。その長持から出た怪しの者も、この時ははやジタバタするではありません。
 こうして神尾主膳はこの古屋敷を出て行きました。甲府から半里、駕籠にも乗物にも乗らずに来て、玄関には草履取と提灯持兼帯の男が一人待っているばかりでした。
 躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》の古城は武田家の居城《きょじ
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