てしまいそうになってきた時も、竜之助は立とうとも動こうともしませんで、やはり冷然として、その刀を鞘に納めてしまいました。その途端に長持のいずれの部分かが、メリメリと裂けるような音がしたかと思うと、中からもがき出したのは一人の男。
それはちょうど、紺屋《こんや》の藍瓶《あいがめ》の中へ落ちた者が、あわてふためいて瓶から這《は》い上るような形であります。面《かお》も着物も真黒でありました。
古い長持であったから、それで錠前《じょうまえ》も刎切《はねき》れたものであろうけれど、それにしても中からそれを刎切るのは容易な力でありません。渾身《こんしん》の力を絞ってやっと蓋を跳上げて、箱の外へもがき出した一人の男は面も着物も、そっくりと紺屋の藍瓶へ漬けておいたように真黒くなっていました。そのもがき出す身ぶりによって見れば、両手を後ろへ廻して縛られた上に、両足をまた一つに絡《から》げてこの中へ投げ込まれていたものと見えます。
竜之助は今しも鞘へ納めた手柄山正繁の刀を膝元へ引きつけたままで、ただそちらの方を見て坐っているばかりでありました。この刀は白鞘《しらさや》の刀ではありません。それは神尾が
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