皮切りをしたから、わが意を得たりと言わぬばかりに、内心で市川に同情しているらしい者もあります。
「なるほど、則重と言いたいところである、一応はそう言ってみたいところで、市川氏のおっしゃるのも御無理はない、大湾《おおのた》れに錵《にえ》が優《すぐ》れて多く匂いの深いところ、則重の名作と誰も言ってみたいが、それよりはずんと高尚で且つ古いものじゃ」
平野老人はこう言いました。
「そ、そんならば老人のお目利《めきき》は?」
市川は再び老人に返答を促《うなが》したけれども老人は、頓《とみ》に返事ができないで困《くる》しんでいる様子を小林師範が傍《かたわら》から見て、
「これは近頃の好題目、口に出して言うては皆々遠慮がある故に、入札《いれふだ》としてみたらいかがでござるな、各自の見るところを少しの忌憚《きたん》なく紙へ書いて、名前を記さずにこれへ集めてみようではござらぬか」
小林がこう言い出したのは、老人にも救いであり一座もみな同意しました。言い出したいけれども恥を掻くといけないと思って遠慮していたものが多いのを、それが無記名投票になれば恥はかき捨てになり、当れば名誉になるのですから、忽《た
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