ので通った市川という御蔵《おくら》の係りでありました。まだ誰も剣呑《けんのん》がって国も言わなければ年代にも触《さわ》ってみないうちに、早くもその銘を言ってしまったところはなるほど、そそっかし屋であり正直者であることがわかります。
「以てのほか」
 平野老人は首を振って肯《うけが》いませんでした。市川の言ったことを刎《は》ねつけることによって、自分がもてあました言葉尻が立て直りました。
「則重ではござらぬ」
 平野老人は首《かぶり》を振ったから、そそっかし屋の市川は一時《いっとき》、面を赤くしましたけれど、老人があんまり手厳《てきび》しく刎《は》ねつけたものですから、反抗の気味となって、
「そ、そ、そんならば、そんならば、老人のおめききは……」
と言って反問しました。焦《せ》き込むと吃《ども》る癖があるから、いつもならばおかしいのであるけれど、誰も笑いませんで、かえって市川に同情するような心持で、老人の返答を相待っているような者さえあります。それは則重と見たものがこの市川一人ではなく、だいぶ同意見の者があるらしいのです。市川と同意見であるけれども、まだそうも言い出し兼ねている時に市川が
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