入[#二]蓬瀛[#一]《きろほうえいにいる》
[#ここで字下げ終わり]
「君ちゃん」
お銀様はお君を呼ぶのに君ちゃんと言ったり、お君と言ったり、またお君さんと言ったり、いろいろであります。
「はい」
「この文句がわかって?」
「いいえ」
「これだけでは、わたしにもよくわからないから、この下に仮名で書いてあるのを読んで見ましょう、|望用何愁[#レ]晩《ぼうようなんぞおそきをうれへん》という文章の下には『のぞみ事のかなふ事のおそきをうれへず、こころながくじせつをまつべしとなり』と書いてあります」
「はい」
「それから|求[#レ]名漸得[#レ]寧《なをもとめてやうやくやすきをう》という文章の下には『やうやくとはしだいにといふ事也、ほまれのなをもとめ、しだいしだいに名がたかうなり、心安くおもふやうになるべしとなり』と書いてあります」
「まあ、しだいしだいに……」
お君はなんだか充分に呑込めないような面をしました。
「その次に、|雲梯終有[#レ]望《うんていつひにのぞみあり》とは、大きなのぞみごとも、すでにそのたよりを得たということそうな、|帰路入[#二]蓬瀛[#一]《きろほうえいにいる》ということは望みが叶《かな》って帰りには蓬瀛《ほうえい》といって仙人の住むめでたい国へ行くことそうな」
「なんにしても結構なお御籤《みくじ》のようでございます」
「けれどもお君や、心ながくとあったり、しだいしだいとあってみれば、これは急のことではないらしい」
「左様でございますか」
「わたしは急であって欲しい、一日も一刻も早くその望みが叶えて欲しい」
「わたしもそのように思いまする」
「気長く待っていられることと、居ても立っても待ってはいられないことがあるのを、神様は御存じないかしら」
「そんなことはございません」
「でも、このことの晩きを愁えずの、心長く時節を待ての、しだいしだいに望みが叶うのと、そんなことが今のわたしに堪えられようか、わたしはこのお御籤が怨《うら》めしい」
お銀様はどうしたのか、急に眼の色が変って、いきなりそのお御籤の紙を竪《たて》に二つにピリーと裂いてしまいました。
「何をなさいます、お嬢様」
お君が、周章《あわて》てそれを押えようとしたのは遅く、二つに引き裂いたお御籤の紙を、お銀様はクルクルと丸めて、洗水盤《みたらし》の中へ投げこんでしまいました。
「まあ、勿体《もったい》ないことを」
と言って、お君は怨めしそうに、いま投げ込まれたお御籤の紙を見つめていますと、
「お君や、帰りましょう、もうどうなってもわたしは知らない」
お銀様はお君の手を取って引き立てるようにし、自分が先へ立ってお宮の前の鋪石《しきいし》を歩きました。お銀様の挙動には、いつでもこんな気むずかしいことがあります。夕立の空のように急に御機嫌が変って、人に物をやってしまったり、また自分の物を惜気《おしげ》もなくこわしてしまったりします。お君はよくその呼吸を心得ているけれども、この時はあまりお嬢様の我儘《わがまま》が過ぎると思いました。我儘というだけでは済まない、これは罰《ばち》の当ったような仕業《しわざ》と思わないわけにはゆきませんでした。大神宮のお膝元で育ったお君には、神様を粗末にすることは罰当りという観念が強いのであります。
「お嬢様、ナゼあんなことをなさいます、せっかくのお御籤を……罰が当ります」
「何だか、わたしは知らない」
お銀様はお君を引き立てて、お宮の外へ出てしまいました。
「大吉は凶に帰る」
この時、茶所で、米友が昼寝をしていたのはどうも仕方がありません。お銀様は先に立って、
「お城を見て行こう、お城の方へ廻って見物して帰ることにしようわいな、早く」
「お嬢様、今日はこれだけでお帰りなさいませ」
「いいえ、お城を見て行きましょう」
「お城の方へおいであそばすと暇がかかって、お家で御心配になりますから」
「そんなことはかまわない、お城の方へ廻ってみたい、お前いやなら一人でお帰り」
「それではお伴《とも》を致しましょう」
お君はやむことを得ずして、賑かな方へとお銀様に引かれて行くのでありました。その間にお君は紫縮緬の女頭巾を被り直しました。お銀様は、いつもよりは早い足どりでお城の大手の方へ、大手の方へとめざして歩いて行きましたが、どうもお君は、それが少しずつ物狂わしいように思われて、不安の念に駆《か》られないわけにはゆきません。
甲府の城は平城《ひらじろ》ではあるけれど、濠《ほり》も深く、櫓《やぐら》も高く、そうして松の間から櫓と塀の白壁が見え、その後ろには遥かに高山大岳が聳《そび》えている。濠を廻って二人の若い女は大手の門の前へ立ちました。
ここへ来ると、お天守台も御櫓も前に見えなかったのが、よく見えます。
お城の大手の濠の前に立
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