見に出かけてくれねえか」
七兵衛は米友を顧みて水を向けましたけれど、米友は苦笑いしてそれに応ずる気色《けしき》がありません。
九
その晩はそれで済みました。その近所にべつだん斬られた人もありませんし、鍋焼饂飩《なべやきうどん》も夜明けになって無事に帰ったし、七兵衛もまた明るくなる時分には、どこへ行ったか姿が見えなくなりました。
米友は昨夜の睡眠不足があるから夜が明けると共に、担ぎ出されても知らないくらいに寝込んでしまったから、日がカンカン寝ているところの障子に当るのも御存じがありません。
米友がこうしてグッスリと寝込んでしまっている朝、この八幡宮へ珍らしい二人の参詣者がありました。二人とも同じ年頃の女であります。そうして二人ともに藤の花の模様の対《つい》の振袖を着ておりました。それから頭と面《かお》とはこれも対の紫縮緬《むらさきぢりめん》の女頭巾《おんなずきん》を、スッポリと被《かぶ》っています。
「お嬢様」
と一人の娘が言いました。
「あい」
一人の娘が頷《うなず》きました。一人は慇懃《いんぎん》であって、一人は鷹揚《おうよう》であります。見たところでは頭の先から足のうらまで対《つい》の打扮《いでたち》でありましたけれども、これは姉妹でも友達でもなく、主従の関係にあるらしいことは、今のその挨拶の仕様でよくわかるのであります。
「ここが八幡様でございますね」
「ああ、ここが八幡様」
こう言って二人は石段を登ります。この時はまだほかに参詣の人もありませんし、この近所を通る人も極めて稀《まれ》です。石段といっても五六段ぐらいしかありません。苦もなく二人は登って、二人は鳥居の中へ入って行きました。
お宮の前へ来てから、はじめてそのうちの一人が頭巾を外《はず》しました。そうして現わした面《かお》を見ると眼のさめるほどに美しくありました。それは間《あい》の山《やま》のお君であります。お君は、こんな結構な晴着で頭髪《かみ》も見事に結っていました。
お宮の前へ来てお君だけが頭巾を取りましたけれど、もう一人の娘は決して頭巾を取らないのであります。頭巾を取らないで八幡様のお宮の正面《まとも》を避けるようにして、水屋《みずや》の方へ漫歩《そぞろある》きをしているのに、お君はそれと違って、お宮の前へ出て恭《うやうや》しく拝礼しました。それからお賽銭《さいせん》を紙に包んで、お賽銭箱の中へ投げ込みました。
「君ちゃん」
頭巾を取らない方の娘が呼びますと、
「はい」
お君はやはり恭しく返事をして、頭巾を取らない娘の方へ寄って来ました。
「わたしはここに待っているから、お前だけあちらへ行ってお御籤《みくじ》をいただいて来ておくれ」
頭巾を取らない娘が言いました。
「承知しました、ではお嬢様、暫らくこれにお待ち下さいませ」
「あの、お君や、もし年を聞いたら十九で、午年《うまどし》の男と言うように」
「はい」
「家を出てから今日で七日目になるということや、大切な宝を持って出たということも、聞かれたら答えてもよいけれど、あまり細かくは言わないように」
「はい、よろしうございます」
「それから、わたしの家の名前だの、幸内の名前だの、わたしの名前など、尋ねられても決して言わぬように」
「畏《かしこ》まりました」
お君は頭巾を取らない娘と、これだけの問答をして、一人だけ履物《はきもの》を脱ぎ揃えてお宮の上へあがりました。
ほどなく、お君は一枚の紙を手に持ってお宮の中から出て来ました。
「お嬢様、お御籤《みくじ》をいただいて参りました」
水屋のところに立って待っていた頭巾を取らない方の娘――いちいち頭巾を取らない方の娘とことわらなくても、それはお銀様と言ってしまった方がよいのです。お君の手に持っていたお御籤の紙がお銀様の手に渡されると、お銀様は受取って読みました。お銀様は紫の女頭巾はほとんど眼ばかりしか出さないように深々と被《かぶ》っていました。その眼をじっとお銀様がお御籤の紙上に注《そそ》いで黙読しているのを、お君は傍から覗いていました。お君にはその文字は読むことができないのであります。
「お嬢様、お御籤の表《おもて》は、吉でございますか、凶でございますか」
「この通り八十五番の大吉と出ていますわいな」
「大吉、それは結構でございます、この八幡様のお御籤が大吉と出ますようならば、もう占めたものでございますね」
「まあ、お聞き、大吉は凶に帰るということもあるから、一通り読んでみなくては」
お銀様は小さい声で読みました。
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|望用何愁[#レ]晩《ぼうようなんぞおそきをうれへん》
|求[#レ]名漸得[#レ]寧《なをもとめてやうやくやすきをう》
|雲梯終有[#レ]望《うんていつひにのぞみあり》
|帰路
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