実は泥棒をする奴があるんだ、だから天誅じゃねえ、泥誅[#「泥誅」に傍点]なんだ。俺らが本所に留守番を頼まれていた時分に、その泥誅[#「泥誅」に傍点]を脅《おどか》してやったのはいい心持だった」
米友の気焔は、少しく小林の注意を呼び起したらしく、
「俺も久しいこと江戸へ行って見ねえが、江戸の市中もそんなに物騒なのかい」
「そうさ」
米友はここで江戸通《えどつう》になることに、相応の誇りを感じたものらしく、
「江戸へ行って見ねえ、つまり徳川の政《まつりごと》が末なんだね」
「なるほど」
「何しろ公方様《くぼうさま》のお膝元で天誅や辻斬がやたらにあって、それをお前、役人が滅多《めった》に手出しができねえんだからな。それでまた片一方には貧窮組というのがあるんだ」
「なるほど」
「貧窮組というのは、貧乏人の寄集《よりあつま》りなんだ、貧乏でキュウキュウ言ってるからそれで貧窮組というんだなんて、貧乏を見え[#「見え」に傍点]にして、党を組んで、旗を立てて、車を曳いて押歩いてる」
「なるほど」
「それに比べりゃあ、甲府なんぞは無事なものさ、一人や二人の辻斬は、どうも仕方がなかろうぜ」
「ところが一人や二人じゃねえんだ……」
小林はそれに附け加えて何か言おうとした時に、十日ほど前の晩に人が斬られたという松林の方で、
「鍋や――き、うどん」
自慢の声が長く引いて聞えて来ました。
「来たな、鍋焼が来たぞ」
米友はどうやらその鍋焼うどんを待ち構えているらしくあります。
「鍋や――き……」
二度目に聞えた時に、鍋や――きだけで止まってしまいました。うど――ん、という声を続けるところで急に咽喉《のど》が塞《ふさが》ってしまったらしいから、せっかくの余韻《よいん》が圧殺《おしころ》されたような具合であります。それと同時にガチャンピシンドタンという大騒ぎ、丼《どんぶり》が飛ぶ、小鉢が躍る、箸が降る、汁とダシの洪水《おおみず》。屋台もろともにこの茶所へ転げ込んで、
「ウ――」
と唸ったのは鍋焼饂飩屋《なべやきうどんや》の老爺《おやじ》であります。
「どうした」
小林文吾は、いま転げ込んだ鍋焼饂飩を引き起して、忙《せわ》しく尋ねました。
「そ、そ、そこで斬られた――」
鍋焼饂飩は、股慄《こりつ》しながら、やっとそれだけ言いました。斬られたとは言うけれど、斬られている様子はない。単に脅《おどか》されたものか、或いは他の斬られたのを見て、自分が斬られたと思ったのか。小林は脇差の鯉口《こいぐち》を切りながら、外の闇へ飛んで出ました。
「爺《とっ》さん、しっかりしなくちゃいけねえ」
そのあとで米友が鍋焼饂飩の介抱《かいほう》に廻りました。
鍋焼饂飩は、やっと回復したけれども、まだ生きた空はありません。
「いったい、こりゃどうしたんだい」
と言って尋ねてみましたけれど、その返事がいっこう纏《まと》まりがありません。ただ、鍋焼饂飩《なべやきうどん》をお客に喰わせていると、松の蔭から黒い人影が現われて、そのお客もひっくり返ったが自分も無暗《むやみ》にここへ逃げ込んだというだけの要領でありました。そのお客がどんな人であったか、またその物蔭から出た黒い人影が、どんな形であったか、そんなことはまるっきり要領を得ないから、米友は笑止《おかし》がって鍋焼饂飩に力をつけてやり、お茶を飲ませたり、壊《こわ》れた道具を片附けたりしてやりました。鍋焼饂飩は、まだ歯の根も合わないで、慄《ふる》えながら始末をしているところへ、
「ああ、危ねえ、危ねえ」
と言いながら、またもそこへ入って来たのは風合羽《かざがっぱ》を着た旅の男。
「兄さん、すんでのことに、命拾いをして来たよ」
笠を取ったその人は七兵衛でありました。
「やあ、お前様はさいぜんのお客様」
と鍋焼饂飩が叫びました。
「爺《とっ》さん、飛んだ迷惑をかけちまった、それでもまあ、おたがいに命拾いをしてよかったね」
と言って七兵衛は鍋焼うどんを慰めました。
「でもまあ、命拾いをしたにはしましたがねえ」
と鍋焼饂飩は諦《あきら》めたような、諦められないような返事をして、恨めしそうに壊れた商売道具を見ています。
「商売道具がこわれたね、爺《とっ》さん、俺が立替えるよ」
七兵衛はかなり重味のある財布を首から外して、鍋焼うどんの屋台の上へ投げ出しました。
「こんなにいただいちゃあ、こんなにいただいちゃあ済みませんねえ」
と言って鍋焼饂飩は恐縮してしまいました。それには拘《かか》わらず七兵衛は上《あが》り端《はな》へ腰をかけて、
「やれやれ、こうして俺たちは命からがら逃げて来たのに、また物好きな人もあればあるもので、わざわざ斬られにあとを追蒐《おっか》けて行った人があるようだが、友さん、どうだい、ひとつその槍を担《かつ》いで様子を
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