いたじゃあねえか、あんなときにでえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]がやって来たらどうする」
「そりゃあ、コクリコクリやっていたって、了簡《りょうけん》は眠っちゃあいねえんだ、眼は眠っても心は眠らねえから、誰がどこへ来たということもちゃんとわかる」
「えらい」
と言って米友を煽《おだ》てた仲間体の男は、いい気になって、米友がいま持って歩いた床几《しょうぎ》の上へ腰を卸《おろ》してしまい、
「兄い、睡気ざましに一口|湿《しめ》してみちゃどうだ、いい酒だぜ」
と言って、傍へ置いた貧之徳利を取り上げて少しく振って試み、それから懐中へ手を入れて経木皮包《きょうぎがわづつみ》を一箇取り出しましたが、こんなことをしている間にも、どうやら外の通りを気にかけている様子であります。この男は仲間体に見えたけれども仲間でないことは、その人柄の示す通りであったが、事実もやはりその通り、これは師範役の小林文吾の変装でありました。
小林文吾は言葉も身ぶりも、やっぱり仲間そっくりで、徳利を振ってみて、懐中から経木皮包を取り出しました。
「兄い、うめえ肴《さかな》があるから一口湿してみてはどうだい」
「俺《おい》らは酒は飲めねえんだ」
と米友は断わりました。
「そんなことを言わねえで、一杯つきあったらどうだい」
「酒は飲めねえんだ」
「そうかい、そりゃあせっかくだな」
と小林文吾が、多少気の毒そうに徳利を引込めたから、米友もそれに好意を表する気になりました。
「俺らは飲めねえけれど、お前、そこで飲むなら飲みねえ。ナニ構わねえよ、神様の前だってお前。神様だってお神酒《みき》をあがるんだからな」
「そうかい、それじゃ済まねえが、一杯やらしてもらうとしよう」
小林文吾は米友の好意を得て、また徳利を引き出しました。その徳利から、さきに借りた茶碗へ冷《ひや》で一杯ついで、それを一口飲んでから茶碗を畳の上へ置いて、徳利を炭火の端へ突込んで地燗《じかん》をするように仕掛けました。
「俺が一人で飲んで、お前に見せておいては済まねえ、酒がいけなければ肴《さかな》を御馳走しようじゃねえか。この通り、結構な肴を持って来ているんだぜ、目刺《めざし》だよ、目刺を大相場で買い込んで来たんだ。目刺だからと言って、ばかにしちゃいけねえ、今時《いまどき》、甲州でこんなうめえ目刺が食えるわけのものじゃねえ、ほかの国ならばどんな魚でも食えるんだけれど、この甲州という山国へ来ては、たとえ、目刺にしてみたところが容易なもんじゃねえんだ、昔信玄公が北条と軍《いくさ》をした時分によ、小田原の方から塩を送らなかったものだ、これには信玄公も困ったね、海のねえ国で、塩の手をバッタリ留められてしまったんじゃあやりきれねえ、それを越後の謙信という大将が聞いてよ、おれが信玄と軍をするのは、弓矢の争いで塩の喧嘩じゃねえ、土や城は一寸もやれねえが、北国の塩でよければいくらでもやると言って、度胸を見せたのは名高え話だ。だからお前、いま目刺を持って来るにしたところで、駿河《するが》の国から呼ぶんだぜ。これから駿河の海辺へ出るのには三十里からあるんだ、その間を生肴《なまざかな》が通う時は半日一晩で甲府へ着くから大したものじゃねえか。その半日一晩で着いた生肴の方はなかなか俺たちの口にゃあ入らねえ」
といって小林文吾は、経木皮包を開いて火箸を横にしてそれを炙《あぶ》ろうとすると、見ていた米友が、
「おっと待ってくれ、酒はいいけれど肴の方はよしてもらいてえ、酒は神様も召上るけれど、まだ目刺を八幡様が召上ったという話は聞かねえからな」
「なるほど」
小林は米友の理窟に伏して、強いて目刺を焼こうともしません。
「このごろは世間が騒がしいからな」
ややあって小林は、何ともつかずにこんなことを言いました。
「ははは、世間が騒がしいというのは、あの辻斬のこったろう」
「うむ」
米友が存外平気なのを見て、小林は眼を丸くしました。
「十日ばかり前の晩にこの松山の向うで一人|殺《や》られたんだ、そいつが殺られた時は俺らは、まだこの八幡様へ奉公に来ていなかったんだ。この辻斬というやつは甲府に限ったことはねえんだ、江戸へ行ってみねえ、このごろはあっちこっちでずいぶん流行《はや》っていらあ」
「そんなものに流行られてはたまらねえ」
と小林は額を押えました。
「甲府へはまだ流行って来ねえけれども、江戸でも天誅《てんちゅう》というやつが流行り出してるのだ。天誅というのは、金持やなんかで太《ふて》えことをした奴を踏んごんで行って斬っちまって、その首を曝《さら》したりなんかするんだ、なかには前以て高札を立てて脅《おど》しといて斬る奴なんぞもあるんだ。なんでも薩摩の奴がいけねえんだそうだ、薩摩っぽうが天誅をやりやがるんだ。ナーニ、名前は天誅でその
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